2021年2月27日土曜日

子どもと安易に「約束」をしない

 前号の続き。

教育現場における信用と信頼の違いを意識する大切さについて。


前号はほぼ説明で終わってしまった。

実際に教育現場でどのようにこれらを使い分けるかという話。


やりがちな失敗から。


例えば、何かとやんちゃなAという子どもが、何か失敗したとする。

何度注意しても、ルールを守れないとか、お友達に暴力をふるってしまうとか、そういう類のことである。

あるいは、宿題をやってこなかったとか何でもいい。

(それ以前に、根本的にその大量の宿題そのものをなくせば早いのにと、私はずっと言ってきてはいるが。)


この時に

「次はしないって約束できる?」

という指導が入ることがある。

これは結構、危険である。


これは、子どもとの「信用に基づく取引」である。

「ゆるす」代わりに「もうしない」という約束を取り付ける。

この契約は、契約終了時(せめてその年度内)までに無事に履行されそうか。


恐らく「否」である。

Aという子は「何かとやんちゃ」なのである。

過去数年に渡り数多の「約束不履行」を連発しているため、「信用」はできないはずなのである。


そこに敢えて無謀な「契約」を持ち込む。

「とりあえずこのままだと会社に帰れないんで、ここにハンコかサインを」的な、一時しのぎの契約でしかない。

やがて契約破棄されるであろうことは、目に見えている。

一般社会なら、あり得ない契約である。


こういう子どもを相手に、安易な「約束」などは持ち込まない方がいい。

子どもからしても「いや、今までの自分からして、どう考えても無理です。約束できません。」

とはなかなか言えないはずである。


下手に「約束」をしても、結局破ることになる。

子どもは「また約束を破ってしまった。どうせ自分なんか」という自己嫌悪と自尊感情の低下。

教師は「また約束を破られた。どうせ私の言うことなんか」という自己嫌悪と自尊感情の低下。

永遠の悪循環ループである。


本来ここで用いるのは、条件付きの「信用」ではなく無条件の「信頼」の方である。

「次は大丈夫だと信じているよ。」

これだけである。

指導者側が、主体的に勝手に信じるしか、道はない。

子どもからすれば、できない約束をする義理なぞないのである。

ただ、親子関係と同様、無条件に信じてもらっているという感覚だけは、必要である。


私はよく自分の学級には「敗北宣言」をしておく。

こちらに子どもを「ゆるさない」という選択肢はない、ということを予め伝えておく。

どんなに悪いことやひどいことをしようが、必ずゆるす。

こちらには「きっとよくなる」と信じるしか道はないのである。


「ゆるしません」と口で言っても、それは気持ちの上で言っただけで、実際にはゆるすという一択しか道はない。

「先生」の方が一見強い立場に見えるが、実際はこちらの言うことを聞き入れてもらわないと、全く仕事にならないのである。


子どもと教師の関係というのは、「信用」は脇に置いておき、最終的に信頼によるしかないのである。

これは、親子関係にも言えるのではないだろうか。


我が子を全面的に「信用」できるか。

つまりは、約束をきちんと守り、こちらの望む通りに品行方正に動いてくれるということである。

多くの場合、かなりきわどいのではないかと思う。


自分の子どもは、信用できないかもしれないが、信頼するしかない。

脇道にも逸れるし、だらしないしいい加減だし真面目に勉強もしないし、しかも上手くやろうと誤魔化してずるい。

(まるで親の自分に瓜二つである。)

それでも、失敗も多いし全然思うようになってくれないけれど、きっとうまくいくと信じる。


「あんたはずるいしいい加減だし、だいたい育ててもらっておいて、◎△$♪×¥●&%#?・・・」

と、どんなに腹が立ってまくし立てても、結局は親の敗北ということだけは決定事項である。

心の中で密かに「敗北宣言」をしておき、「ま、仕方ない」とあきらめる(=明らかに認める)しかないのである。


さて、このような場合は信頼しかないとして、学校では「信用」が必要な場面も多々起きる。

どのように子どもを「信用」していけばよいのか、あるいは教師の側がどのような手順で「信用」されていくのか。

ここについては、次号に続く。

2021年2月25日木曜日

信用と信頼の違いを意識する

 教育の成立条件は「信・敬・慕」。

師の野口芳宏先生の言葉であり、この言葉だけは、どの年の教育実習生にも常に伝えている。

(引用文献:野口芳宏(2010).利他の教育実践哲学 ─魂の教師塾─ 小学館 pp.73-78.

https://www.shogakukan.co.jp/books/09837391 )

この本はここ十数年の私にとっての座右の書であり、自分の教育実践の中核となっている。


さて、この中の「信」について取り上げる。

ここで述べるのは、師の野口先生のものではなく、あくまで私自身の教育実践からの考察である。


「信」は、信用と信頼である。

ここでさらりと並べて書いたが、「信用」と「信頼」を明確に区別して考えることが大切である。


似た言葉の相違を考える際には、それを用いた熟語を考えたり、どのような場面で使われたりするかを考えるとよい。

片方でしか使えないという場面をいくつか比較すれば、意味の違いが明確になる。


「信用」を考える。

信用取引、信用金庫、信用組合など。

お金や契約が絡むものが多い。

英訳はクレジットカードの「credit」であり、この言葉には「単位」という意味もある。

きちんと規定の課題をこなせばcreditが出るし、そうでなければ出ない。


「信頼」を考える。

信頼関係、信頼感、自己信頼。

感情が絡むものが多い。

英訳は「trust」で、この語源は真実や真理の「truth」と同じである。


これだけでも、明確に違いがわかる。

信用とは、言うなれば契約関係である。

一方で信頼とは、無条件に真に相手を信じきることである。


信用というのは、常に条件付きである。

いつも何かをしているから、あるいは何かができるから、信用できる。

あるいは、過去に何かをしたから、あるいはできなかったから、信用できない。

約束したら、相手にその遂行能力があるだろうという期待が信用である。

信用は「裏切らない」「契約を履行する」というのが前提である。


シビアであるが、社会での関係は基本的にこれである。

例えば、Amazonや楽天などで気軽に買い物をする。

これは、頼んだ商品が確実に届くという「信用」があるからこそである。

(しょっちゅう届かないとかいうことがあれば、確実に使わなくなる。)


基本的に信用で商売は成り立つため、会社などは「信用第一」とよく言われる。

また、信用は契約・取引関係のため、裏切ると致命傷になる。

そのため、特に不祥事への対応などはここの分水嶺になる。

つまり信用とは、主体と客体の両者の行為によって成り立つものである。


ただ、信用を積み上げていくと、やがてそれが信頼に変わることがある。

馴染のお客様とお店との関係などは、信頼関係である。

例えば今は飲食店等は経営がきついが、何があっても応援して足を運んでくれるお客様は、信用ではなく、信頼に基づく行為である。


私の好きな松下幸之助氏の幼少期のエピソードに、松下氏が初めて自転車を売った話がある。

小僧時代に泣きながら奔走して初めて契約をとったお得意先から「気に入った。永久にお前から買ってやる」と言われたそうである。

これなどは、理屈もなにもなく、信用ではない無条件の信頼関係である。


どちらが社会的に獲得し難いかも明確で、圧倒的に、信頼である。

信頼の場合は無条件なので、見返りを一切期待していない。

相手がどう出ようが、それを信じているのである。

つまり信頼とは、完全に主体的な行為である。


一方で、信頼はある特定の関係において、無条件に与えられるものでもある。

例えば、親子関係である。

子どもを信頼している親がいる。

それは、我が子が優秀だからとか、何かの賞をとったからとかではない。

ただ信頼しているのである。


周りに何を言われようと、いじめられようと(あるいはいじめる側に回ってしまおうとも)、失敗しようとも

「あなたを信じているよ。味方だよ。」

というのが、親子の信頼関係である。

あまり考えたくはないが、例え成人した我が子が罪に問われて投獄されても、信じて待っているのが親である。


この場合の信頼の「信じている」こととは

「あなたは、今は辛いだろうけど、きっと大丈夫。必ずよくなる。」

という無条件の肯定である。


拙著『切り返しの技術』でも紹介している「信じているよ。」は、この信頼に基づく切り返しワードである。

(松尾英明(2016).ピンチがチャンスになる「切り返し」の技術 明治図書 PP.38-39.

https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-190712-9 )


説明だけで長くなりすぎた。

教育実践云々については、次号に続く。

2021年2月23日火曜日

リスペクトの入り口は「ありがとう」

様々な人間関係を見ていると、「なめている」と感じるものがある。

大人も子どももある。


「なめている」とは、相手を見下した状態である。

親子関係、職場の同僚、学級で過ごす仲間や担任との関係など、継続する人間関係でこれはよくない。


「学級担任はなめられてはいけない」というと、誤解を招く。

荒れた状態の学校に赴任した教師の心境を想像するが、それではない。

相手より上になるのではなく、フラットなよい関係を築くべしという意味である。

なめてるとは、相手を尊重していない状態で、教える、教わるという関係性でこれは障壁になる。


子どもの側も同様である。

子どもの側へも、子どもだからといって、「なめている」状態はいけない。

相手を尊重する態度がないと、能力を低く見積もって十分に教えることができなくなる。

「まだ〇年生だから〇〇ができない」という考え方も、子どもをなめきっている証拠である。


どちらか(あるいは両方)が「なめている」という人間関係の状態は、お互いを不幸にする。

逆に、お互いが「リスペクト」し合っているという人間関係の状態は、お互いを幸福にする。


拙著『切り返しの技術』や『お年頃の高学年』でも書いたが、子どもが失礼なことを言ってきた時は、スルーしない。

子どもだから、大人だからと関係なく、相手を傷付けていい理由はない。

大人への接し方が間違っているなら、子ども同士の接し方も当然間違える。

ここは、きちんと教えるべきところである。

「私はあなたのお友達ではないのですよ」「その言葉は傷つきます」というような切り返しも必要である。


リスペクトを示すのに最もわかりやすい言葉が「ありがとう」である。

「ありがとう」はあらゆる言葉の中で、最も万能に使える。

少しでも良いこと、助かることであれば、小さなことでも「ありがとう」である。

当り前のことにも「ありがとう」である。


「なめている」状態になると、ありがとうは出なくなる。

感謝の念がなくなる。


学級の荒れは、リスペクトの欠如からである。

ありがとうが自然に出るか。

出なければ、こちらからどんどん出す。


予防は治療の100倍簡単である。

相手をなめず、普段から「ありがとう」を伝えられるようにしたい。

2021年2月21日日曜日

学校の正解主義とクイズ

学級で作るイベントや学級活動を大切にしたい。

クラス会議をして話し合い、子どもたち発案で、色々とやる。

自治的活動の一環である。


誕生日会、実習生の歓送迎会、クリスマスパーティーと、色々である。

その会の中で、催し物がいくつかあり、必ず入る定番が、レクと「クイズ・なぞなぞ」である。

現在は、朝の会でも行っている。


初期の会では、マニアックな知識を問う問題が結構あった。

知らないと全く答えられない類のものである。


大人向けの問題にして例えると

「良いことをしたら少しぐらい悪いことをしてもいいと思ってしまう心理を、心理学で何というでしょうか」

答えは「モラル・ライセンシング」。

こういうタイプのものである。


ただ単純に、知っていれば正解するし、知らないと全く答えようがないというものである。

「知識マウンティング」になりがちな行為でもあり、場合によっては嫌味にとられかねない。


さて、こういう種の問題がいくつか続いた後に、複数の子どもから

「それはなぞなぞじゃなくて、クイズだ」という意見が出た。

言われた子どもたちは、違いがよくわからない。

言っている方も、うまくは説明できないが、肌感覚で何となくわかっている様子。


子ども同士で説明している内に、何となくだが理解が浸透してきた。

やがて、単純な知識を問う「クイズ」は減ってきて、「なぞなぞ」系のものが増えてきた。


要するに、ストレートに知識を問うのが、クイズ。

一方で、少しひねってあり、考えればわかるようなものが、なぞなぞ。

その解釈が一般的に正しいかどうかは別として、そういう理解になっていった。


子どもたちが考えたものだが、これは授業者においてもかなり大切な視点である。

授業でしているのは、ここでいう「クイズ」中心ではないだろうか。

つまり、知識を問う当てっこである。


テストなどでは、ごく一部の記述問題を除き、ほとんどがこれになる。

知識の有無を問うて測定するのがテストだから、ある意味当然である。


しかし授業がこの「クイズ」中心では、面白いはずがない。

知っている子にはつまらないし、知らない子にはわからない。

知ればいいだけのことなら、さっさとストレートに教えればいい話になる。


ここでいう「なぞなぞ」のごとく、考える授業にしたい。

知識を直接問うよりも、「なぜそう言えるのか」「本当にそう言えるのか」を問う授業が求められる。

授業では「そんなの当たり前だ」を打破する必要がある。


一番「クイズ」にしないよう注意すべきが、道徳の授業である。

話題の中心、柱となる価値があってもよいが、それへの解釈、価値観はそれぞれである。

「こう答えるのが正解」とあっては、もはや道徳の授業とはいえないだろう。

この点は、学級会(あるいはクラス会議)も同じである。


算数は「クイズ」になりがちである。

やり方さえ事前に知っていれば、ストレートに解が出る。

ただ考え方、道筋はそれぞれのはずなので、そこで「クイズ」を脱せる。

(どれくらい試行錯誤の自由をとるべきかは、悩ましい問題である。)


人々に多様性を求めるこれからの時代、社会のあらゆる問題での「正解」は一つに定まらないはずである。

クイズ的正解中心の教育。

ここを脱したいところである。


しかし自分たちの意思だけでは、正解主義の道を脱せない。

受験の在り方が大きく関わってくる。

受験で選択肢による正解主義が求められる以上、「クイズ」を重視さざるを得ないのが現状である。


教育内容で重視されることの全てが、大学受験から下へ下へと降りてくる。

入試がこれからも正解主義を求め続ける限り、この流れは変えられない。

(本来なら、入試での「考えを述べる」への採点が難しい以上、全国一斉というテスト形式自体を考え直す必要がある。)


現状では、「クイズ」にはきちんと答えられるようにしつつ、自分の頭で考える力も同時に育成することが求められる。

ものを考えるための材料である知識が豊富にあるからこそ、そこについて考えられるという側面もある。

「教え方」も「学び方」も大切だというのは、そのためである。


子どもたちの言動から学べることはとても多い。

一方的に教える授業ばかりでは、子どもたちからの言動は見えてこない。

子どもの自由度を高めることで、教える側に気付きを与えてくれる余地ができる。


自分の授業は正解主義の「クイズ」ばかりになっていないか。

自問自答しながら授業に臨む姿勢が求められる。

2021年2月19日金曜日

フィンランドの教育改革と日本の教育改善

 次の動画から。


https://youtu.be/8cOsqYItCoI


アメリカの某有名監督がフィンランドの教育について紹介した動画である。

フィンランドの教育改革は、認めざるを得ない大成功である。


これを見て「やっぱり」という、嬉しさと、悔しさの両方がこみ上げてきた。

この読者の方の中にも、同じ思いの人は多いはずである。


嬉しさの方は、やっぱりこれなんだとわかったことである。

子どもたち、特に低学年の子どもには、遊びこそが学習であるということ。

木なんか勝手に登らせておけばよいこと。

詩や絵画、音楽といった芸術活動こそが人間を育てること。

決定権をもたせ、大人扱いすること。

問題意識をもち、自分で考え、自分の言葉で話し、書けるようにすること。

自分も他人も尊重することで、幸せに生きられること。

ずっと言ってきたことである。


悔しさの方は、やっぱり駄目だとわかったこと。

大量の宿題が有害であること。

そもそも授業の内容と時間が多すぎること。

定まった解を答える選択式テストの在り方が教育を根本的にダメにしていること。

全国統一テストが差別と教育格差を生むということ。

テストで点を取る訓練は教育ではないということ。

テスト訓練に特化したところが評価され大儲けする誤った仕組みになっていること。

教育と子どもが経済の食い物にされているという誤った構造。

ずっと言ってきたことである。


結局、何がだめでやめるべきかも、どうすればいいのかも、実はみんなわかりきっている。

問題は、今の方向で努力した先に本当に望む未来はないとわかっているのに、なぜ方向を変えられないのかである。


私はここを「一貫性の罠」という面で考えている。

要するに、変わらないことで筋を通すことが清く正しいという考え方の落とし穴である。

ずっと主張してきたことを、誠実な人ほど、今更変えられないということである。

それは「裏切り」になるのではないかという恐れである。


何かを変えようとすると、既得権益のある人にひどく抵抗されるのは目に見えている。

今の地位を与えてくれている集団から逆賊扱いを受けるのは必至である。


だから、既に高い地位のある人に、改革を求めるのは道理的に無理がある。

実際に近代日本史における諸改革は、反乱や外力によるものばかりである。

今の日本の教育の基礎が、当時の諸外国にとって都合の良い形に整えられたものであることは紛れもない史実である。


本当は、すぐにでも変わった方がいいのである。

以前使っていたものが今は合わないということの方が自然である。


二槽式の洗濯機の登場は昭和において革命的なほどに便利な製品だったに違いない。

しかし、今は乾燥機もついた全自動のものがあり、一般的には使われない。

何なら、いつの時代まで川へ行って洗濯板で洗うつもりなのかということである。


大きな団体であれば難しいが、個人であれば、すぐにでも変わることができる。

私自身、正直、言ってることもやっていることも、ころころ変わる。

これにはかなり自覚的である。


かつて燃えていた、熱心にやっていたことを、次の年にはパタリとやらなくなることがしょっちゅうある。

もっと極端な場合、価値観が以前と真逆になっていることもある。

かつて「勝つ」とか「できる」とかを非常に重視していた時代もあったが、今はどちらでもよいと思っている。

(やろうと思えばすぐにでもやれる。しかし、もうやりたくない。)


やり方に一貫性があるかといえば、はっきり言って、ない。

ある程度の一貫性があるのは、志の面だけである。

「学校は子どもが良くなるためにある」「教育を良くすることが社会を良くする」というような信念ついては、一切変わっていない。


逆に、今年度のようにやり方を変えざるを得ない場面でも、大きな抵抗感はない。

そういう時代なのだから、そういう風に自分の考え方とやり方を変えようというだけである。

何もなくても毎年変えようとするのだから、周囲からも変わろうという力が働いて、助かるぐらいである。


日本の教育の在り方は、根本的に変わるべき時である。

改善や改変を工夫している時ではなく、改革の時である。

タブレットの導入、少人数学級の導入等々の教育施策は、方法レベルの改善ではあるが、改革ではない。

どんな素晴らしい改善方法をとろうが、その先にあるのが結局点取り競争なのであれば、元の木阿弥である。

この学校教育の修了の先に、人間としての幸せがあるかどうかである。


話が大きくなりすぎたが、まずは個々の意識改革からである。

教育の現状に対し、それぞれが疑問に思い、まず「これは変なんじゃないか?」と声を上げていかないと変わらない。

この点は、職員会議や学級会と同じである。


そして、子どもたち自身に改革の意識はあるか。

これからの時代、今目の前にいる子どもたちが時代の担い手、主役になるのである。

その主人公たる意識、主体性があるか。

子どもたちが今の学校の常識というぬるま湯に当然のようにつかっているようでは、未来は危うい。


今の学校に文句があるなら、一緒に変えよう。

みんなが良くなることを望んでいるのだから、みんなで一緒に変えようとすればいい話である。

フィンランドができたのだから、日本にだってできないはずがない。


私は自分のできる位置から、できることをやる。

子どもが近くにいるのだから、子どもと一緒にやっていく。

仲間がいるのだから、仲間と一緒にやっていく。


小さくてもいいから、近くからさざ波を起こしていく。

さざ波同士が同じ方向に向かえば、大きなうねりが生まれる。

誰が読むかもわかっていないメルマガやブログを発行し続けている理由も、全てはそこである。


まずは、今、ここ、自分からである。

2021年2月17日水曜日

子どもの権利・大人の権利

 道徳で、子どもの権利条約について扱った。


子どもに「人権」が認められるようになったのは、ごく近代になってからである。

子どもは、未大人、大人の下、劣等なものとしてみなされていた長い歴史がある。


日本において、子どもは、教育を受ける「義務」があると思っている。

心から権利だとは思えないのかもしれない。

子どもの一日の忙しさを見ていれば、さもありなんというところである。


ご存知の通り、世界、特に貧困地域はそうではない。

学校に行く権利が与えられていない。

その理由は労働であったり戦争のせいであったり、様々である。

先進国とは、忙しさや困難の質が全く異なる。


ちなみに、授業では以下のユニセフの資料と動画を使わせてもらった。


子どもの権利条約

https://www.unicef.or.jp/kodomo/kenri/syo1-8.html


SDGs CLUB

https://www.unicef.or.jp/kodomo/sdgs/kyozai/17goals/4-education/


「子どもの権利」というと、ともすると、わがまま放題と混同しがちである。

しかし、実際に権利が奪われている子ども達を知ることで、権利とは何かを考えることができる。

「最低限保障されたい権利」のレベルが、全く違う。

「勉強したい」がまず夢であり、将来なりたい職業に就く夢は、その先の先の遠い夢である。


自分が自分らしくいられる権利というのが、人権である。

これは大人も子どもも変わらない。


人権という言葉は、層が厚い。

最低限の「生命の維持」というレベルから、自己実現の自由まで様々である。


これを全員が保障されるべきだと主張する時、人権のぶつかり合いが起きる。

考えの違うもの、特に少数派や弱い立場の者が排除される。

誰かが自分の権利は守られるべきだと主張する時、他者にもその権利が保障されていることを忘れてはならない。


子どもの人権を認めようという時、大人の我々にも人権がある。

大人が自分を大事にすることで、子どもの人権も尊重しようと思いやすくなる。

自分を酷使して疲れているせいで、他者の人権を侵害しているかもしれない。


まず自分を大事にし、同時に他者を大事にする。

今周囲から与えられているレベルの人権でも、意識すれば、感謝できる面がかなりあるかもしれない。

2021年2月15日月曜日

詩の鑑賞授業の「自由」を考える

前号と関連した記事。

今回は、国語の授業についてである。

授業でスルーしてはいけない部分、スルーすべき部分を考える。


国語は算数に比べて、指導が苦手という人が多い。

算数のように、各単元において何を教えたらいいかが明確でないからである。


その最たるものが、詩や物語を扱った授業である。

道徳と混同してしまうと、訳がわからなくなる。


詩や物語の鑑賞自体に、正解不正解はない。

鑑賞とは作品を味わうことだからである。

どう感じるかは個人に委ねられている。


しかしながら、妥当であるか否かという問題はある。

テストで「正解」とできる部分は確実に存在する。

例えば、季節。

イナゴと実った稲穂が出てくる詩を読んで「これは冬の詩だ」といえば、誤読である。

それは鑑賞の自由のはき違えである。


大人気絵本作家のヨシタケシンスケさんの絵本の中に

「自分の作った粘土作品を、先生が全然違う動物だと思って声をかける」

というシーンがある。

(ヨシタケシンスケ著 『つまんない つまんない』白泉社

https://www.hakusensha.co.jp/books/9784592762102 )


これである。

作者の意図と全く違うように鑑賞者がとらえる。

作者としては心外である。

ただ、それがあまりに誤解されやすいように作られているなら、それはしかたない。

しかし、教科書に載るような作品はそれなりのものなのだから、鑑賞にもある程度の妥当性があるはずである。


この辺りの線引きというか、鑑賞の自由と妥当性は分けて考える必要がある。

作品鑑賞が自由だとはいえ「どう読んでもOK」では、学力がつかない。

それは、趣味で勝手に詩を読んでいるのと同じで、国語の授業ではない。


算数なら「7×3=27だと思ったんだ?音が似ているし、いいかもね」とは絶対にならない。

明確に間違いである。

ここをスルーする人はいない。


具体例を挙げる。

次の短歌である。


しらしらと氷かがやき千鳥なく

釧路の海の冬の月かな


石川啄木

(出典:新しい国語 五 東京書籍)


まず、感じたことを自由に発表する。

これ自体は国語の授業というより、単なる鑑賞である。

そうすると「月が出ているから夜」という意見が出る。

これは高確率で出る。


実際に「これは朝か夜か」と問えば、過半数が夜と答える。


ここからが「国語の授業」である。

つまり、印象や感想をきくのではなく、言葉を根拠に意見を求める。


印象の強い「かがやき」に注目が集まる。

太陽の光でかがやいているのだ、月の光でかがやいているのだ、という二つが出る。

この意見は、埒が明かない。

どちらもあり得るからである。


「千鳥なく」にも注目が集まる。

百人一首に


淡路島かよふ千鳥の鳴く声にいく夜寝覚めぬ 須磨の関守


がある。

これを見ると、確かに夜に鳴いてる。

実際、千鳥が夜に鳴くというパターンが和歌には多い。

よって「夜だ」と主張する子どもが出てきた。(これはなかなか鋭い意見だった。)


「夜」に意見が傾く。


しかしこれだけで早合点してはいけない。

千鳥の鳴く時間帯は、特に決まっていないのである。

この鳥は、いつの時間帯でも鳴く。


ここから先は、指導者側が研究しておく話になるのだが、実はこの歌は、そもそも季節がちぐはぐである。

千鳥は、渡り鳥である。

寒さの厳しい釧路に来るのは、3月から4月であるという。

つまり、その視点から言えば、季節は春である。


???

もうこの時点で訳がわからなくなる。


もう少し調べていくと、この歌は後につくり直された句だと分かる。

原型は


しらしらと氷かがやき千鳥なく

釧路の海も思出にあり


だという。

(参考:関西詩吟文化協会H.P.

http://www.kangin.or.jp/learning/text/poetry/s_D1_15.html )


つまり、後で「冬の月」を追加してしまったので、季節が混じってしまったのである。

純粋な叙景句としては、これは問題があるといえる。


つまり、ここの「朝か夜か」問題は、最終的に鑑賞者の自由になる。

しかし、鑑賞の際に確定する要素だけは落とさず指導するということだけである。


(ちなみに作品の背景を調べるという場合、これは純粋な鑑賞とは異なる姿勢である。

例えるなら美術館で作品札の解説を熱心に読んでから作品を見るようなものである。

教える側がこれをやりすぎると、先入観に囚われるので要注意である。)


「何でもOK」ではない。

しかしながら「全てに正解がある」訳でもない。

詩の作品鑑賞には、特にそのような面が強い。

(美術作品の中には、完全に個人の自由な鑑賞を求めるようなものもある。

有名なマルセル・デュシャンの「泉」などはその典型である。)


どこをスルーして、どこをリアクションしていくか。

教える側の見識が強く問われる部分である。

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