2020年12月11日金曜日

プロの教師を考える

 教育実習を通しての気付き。


教育実習生は、学生である。

本気で授業をしても、至らない点が多くある。

当り前である。

立派にできるレベルならば、そもそも実習自体が必要ない。


学生であり、練習期間であり、給与を頂いている立場ではない。

給与が支払われないということは、結果による責任が発生しないということである。

責任は、学生を教える正規の教員側に発生するのである。

給与を頂いている立場なのだから、当然である。


正規教員が授業をする。

授業としての合格点は、当然出る。

しかし、「合格点」というのは、「可」である。

「可」というのは、60点程度である。


プロの仕事が「可」でいいか。

職業としてはいい。

給与もきちんと支払われるだろう。

しかし、それは、プロの仕事とはいえない。


例えば、食事を作って提供するという職業。

飲食業全般がそうである。

ただ、これ自体は、アルバイトでもできる。

しかし、お客様が感動するような料理を提供する、となると、プロの領域である。

美味しいものをたくさん食べている人を唸らせるようであれば、確実にプロの仕事である。


つまり、その職業についているといっても、必ずしもプロとはいえない、ということがある。

これは、あらゆる職業についていえる。

正規教員だからといって、必ずしも本当の意味において「プロ」という訳ではない、ということである。


もっと突っ込むと、プロは、ミスをしないともいう。

「プロは絶対ミスをしてはいけない」とは、かの名選手、王貞治氏の言葉である。


プロ野球選手を見るとよくわかるが、高く上がったフライを落とすことはまずない。

プロサッカー選手でも、普通のトラップミスというのがほとんどない。

しかし、高校生や大学生の試合を見れば、別である。

例えば高校野球の最高峰である甲子園であっても、結構ポロポロ落とす。

(むしろ、甲子園のような異様に緊張する舞台だから落とすという面もあるかもしれない。)


さらにプロは、淡々と結果を出し続けるともいう。

プロになる前は趣味で楽しくやっていたことも、変わってくる。

プロの仕事には、常に結果が求められるからである。

楽しいかどうかは評価軸にはなく、淡々と結果を出し続けることが求められる面がある。


つまりその職業に就けた=プロという訳ではないということである。

新規採用者が「私はこの仕事のプロです!採用されたから!」と自信満々に宣言する姿を考えればわかる。

(そういう意識をもって全力で仕事に向かうこと自体には意味がある。)


しかし、それを笑うとしたら、何年目からならいいのか。

十年?二十年?三十年?

それ以上だと、退職が近くなっているし、多分その仕事のプロというより、管理職等の別の立場である。

その面で、職人は、プロが生まれやすいといえるかもしれない。


プロは、年数ではない。

感動を含め、具体的な結果を出し続けられるのが、プロである。

年数自体は、直接的には関係ない。


プロの仕事というのは、評価にするならば5段階の5、10段階の10を付けられる実力である。


師の野口芳宏先生の言葉を借りると、関わる子どもたちに良い「感化・影響」を与え続けられる人物である。

子どもの「向上的変容の連続的保障」ができる教師である。

そう考えると、プロの教師というのは、かなりハードルが高い。


恐らく、そんな高みを目指そうとは思えない状態の学校現場が多いのかもしれない。

今の「やるべき」で埋め尽くされた現状からの余裕を作らない限り、プロの教師は生まれてこないというのが私見である。

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