2020年8月31日月曜日

ロボットとペット

 今更なのだが、少し前に、お掃除ロボットを買った。

前々から興味があって、何年も前に人にプレゼントしていた割に、自分では使っていなかったのである。


きっかけは、犬である。

保護犬である我が家の犬は、予想に反して結構な大きさになった。

そして譲渡時に「室内で飼うこと」と契約してある。

たくさんの毛が、家の中で年がら年中抜ける。

掃除が、とにかく大変なのである。


そこで、ロボットの投入である。

これがいい。

何がいいって、床がきれいになる。

ついでに、床に物を置かなくなるので、家が散らからなくなる。

毛が多く抜けるペットのいる家には、たまらない快適さである。


ペットといえば、世の中にはペットとしてのロボットもいる。

20世紀当時、ロボット犬ということで話題になった。

私もたまたま、伯父が会社の関係で手に入れて、貸し出してくれたので「飼って」いた経験がある。


感情表現が組み込まれているのだが、やはり本物とは全く違うと感じた。

感情表現ができるということと、本当の感情が表に出ているということは、全く違うのである。

生き物としての犬や猫というのは、やはり心の底の感情が隠せないからこそ、可愛いと感じられる。


しかし、ペット型ロボットの先駆けとして、その意義は深い。

ここをベースに、ロボットと人の共存の在り方も考えられてきている。


その証拠として、今でも一部で根強い人気をもっている。

最近は「仮面ライダー」でも出演があったという。

千葉県のお寺では、人形供養と同じような形で、「ペット供養」としてもされているようである。

やはり、人形と同じで、感情移入することで、それには魂が宿るとも考えられる。

(そして買ってきた生き物のペットを途中で飽きて捨てるぐらいなら、ぜひロボットのペットの方を飼って欲しいと思う。)


ところで、お掃除ロボットにも、ペット型ロボット的な可愛さがある。

道に迷ったり、椅子の脚にはさまったりする。(高性能なやつだと、すぐ抜け出る。)

放っておけば掃除をしてくれるのに、つい見てしまうのが難点である。


他に書きたいことがあったのだが、ペットとしてのロボットの話が長くなってしまったのでこれまで。

ロボットも、付き合い方次第というところである。

2020年8月29日土曜日

共存共栄のための競争

 本来ならば、今週はパラリンピックが開会されていたはずである。

今回は、競争の在り方に関して。


次の本から引用する。

『商売心得帖』 松下 幸之助 著  PHP文庫


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(引用開始)

すなわち、お互いが日々行う競争というものは、戦争のように相手を倒すためのものではなく、

共存共栄のための競争というか、ともに成長し発展していくためのものでなければならないと思うのです。

(引用終了)

==============


「経営の神様」と呼ばれる松下幸之助の言である。

松下幸之助は、適正な競争や適正な利潤追求というものに対して、総じて肯定的である。

そこに私心による不正をはさむからおかしなことになる、という至極真っ当なことを、繰り返し訴えている。


共存共栄のための競争は、よい競争である。

オリパラなどスポーツの祭典は、そういうものでなくてはならない。


「科学的に考えて人類には不可能」と言われていた100m9秒台。

これが一人出た途端に、続いて9秒台の人間が世界中に出現した。

競争による共栄、成長、発展の一つの形である。


学校教育においても、競争を完全に排除することはできないし、そうすべきではない。

競争自体が悪いのではなく、競争にも質的な違いがある、ということである。

学校教育で、共存共栄につながらない競争がなされているのが問題なのである。


例えばそもそも、学校の受験はなぜ存在するのか。

各人の能力に応じた適正な教育をするためである。

そのための選別であり、善意の強制といえる。


受験があることで、教える側も、ある程度のレベル以上のものからスタートできる。

目指す方向が似た集団になることで、共存共栄のための適切な競争も生まれやすくなる。

いい意味でライバルと磨き合いやすい環境になる。


受験のない公立小中学校では、ここが揃っていないため、学力差が絡むような競争はうまく機能しない。

競争に依らない、バラバラな方向性に沿った教育が求められる。

公立で教える側は、その意味で、受験のある私立小中学校よりも難しい面があるともいえる。


ここを勘違いして、受験を戦争のような「相手を倒す競争」だと思い込んでいる人もいる。

これはそのまま、大人になってからの生活にも反映する。

お隣の子どもや旦那と比べる、というのは一昔前の時代の話。

今では世界が戦争の対象で、例えばSNSで人よりいい評価を得たい、という自己顕示欲に発展する。


受験は全て自分自身とのたたかいであり、他者がどうであろうが、自分の記録には本来関係ない。

オリンピックに出る陸上や水泳の選手と同じである。

意味があるのは、共存共栄のための競争相手としてであり、共にがんばっている仲間として奮起するためである。


学校において必要な競争。

それは、戦争のように、相手を倒すための競争ではない。

オリンピックのように、自分自身を仲間と磨き合い、共存共栄するための競争である。


オリンピック以上に、パラリンピックがより美しく見えるのは、そういう動機の人が多いからなのかもしれないとも思う。

2020年8月27日木曜日

「学校のルールになっとくがいかない」

 次の本から。


『モヤモヤそうだんクリニック 』 池谷 裕二 文  ヨシタケ シンスケ 絵 NHK出版


子どもの「モヤモヤ」質問に脳科学者の池谷裕二氏が答えるというものだが、これが質問も回答も面白い。


例えば「学校のルールになっとくがいかない」というものがある。


これに対し、様々な知見から述べていくのだが、このルールの分類がわかりやすい。

ルールAを「自分に影響の及ぶもの」

ルールBを「自分には影響の及ばないもの」

の二つに分類する。


Aの例は、交通ルール。

Bの例は、はポイ捨て。


Aだけ守ればBはいいじゃないか、となるが、当然そうはならない。

その辺りを脳科学者らしく、非常にわかりやすく論理的に説明してくれている。


さらにヨシタケシンスケ氏の挿絵には次のようにある。

================

「わたしのルールは

わたしがつくるわ!」

「もちろんいいわよ!

あなたのへやはあなたのルール、

みんなのばしょはみんなのルールね」

=================


私もよく「自分の部屋が一番自由」という話を子どもにする。

「私」の場である自分の部屋でどう過ごそうが、全く構わない。

しかし、学校は「公」の場であり、「私」ルールは最優先とはならない。


今、世間で問題となっているのが、「頭髪」に関するものである。

頭髪に関するルールが設定されている学校というのは、かなり多い。

この問題は長年続いているが、今後どうなるのか、見守っていきたい。

2020年8月25日火曜日

学校での失敗経験は、ワクチン

 現在、COVID-19のワクチン開発が世界中で切望されている。


ワクチンは、弱い毒を植え付けることで、免疫を作るというものである。

小さなダメージを与えることで、強いダメージに対抗できるようにする。


これは、「失敗学」と同じ思想である。

失敗を知り、小さな失敗体験することで、より大きな失敗を防げるようになり、成功に導いていく。


何だか自分で着想したかのように書いたが、実は違う。

前号の「学校教育は失敗を経験する場」を読んで、読者の方が「それはワクチンだ」と教えてくれたのである。


そう。

学校教育で大切なのは、ワクチンの発想である。

無菌状態の温室で育った生物というのは、弱い。

一生その状態をキープできるのならいいのだが、実際は途中で弱肉強食の自然の中へ放り出される。


日本でいうと、学校と社会との断絶である。

幼稚園から大学までは「ほめて伸ばす」「手とり足とり」「あなたは自由」だったのが、社会に出た途端、一変する。


社会に出て「会社でほめられた」という経験がどれぐらいあるだろうか。

ほぼないはずである。

そもそも、仕事とは他者貢献こそが全てであり、自分への称賛を求める場ではない。


社会に出て、「手とり足とり教えてもらえた」という経験がどれぐらいあるだろうか。

ほぼないはずである。

何もかもが「見よう見まね」で、失敗して叱られまくって落ち込みまくって、それでも奮起してきたはずである。

社会は「即戦力」を求めているのであって、いつ辞めるかわからない新人に膨大なコストをかける余裕はない。


社会にでて、「自由にやれた」という経験がどれぐらいあるだろうか。

ほぼないはずである。

公官庁や会社に雇われた場合は言うに及ばず。

起業した場合は自由だろうと思ったら、経理やら何やら、やるべきことは山ほどある。

(この面では、多分、会社に雇われている方がむしろ楽で自由である。)

社会は「やるべきこと」を私に求めてくるのであって、私のやりたいことを求めている訳ではない。


学校教育は、社会のシビアな面を無視してはいけない。

そこを逆に勘違いして、やたら厳しくしたり統制したりするが、それがまた余計に悪い。

従っていれば安泰というような状況に慣れることで、全く動けない人間にしてしまっている可能性がある。


学校では、きちんと失敗をさせるのである。

こちらで全てを掌握せずに、ある程度の責任と権限を与え、チャレンジさせてみる。

まず間違いなく、色々と「やってしまう」。


しかし、そこで終わらせないで、改善を加えながら、何度もトライさせる。

そこで初めて本物の「成功体験」ができる。

失敗もせずにいきなりできることを「成功体験」とは言わないのである。


学校の失敗は、ワクチン。

失敗を恐れないのではなく、むしろ積極的にとっていく姿勢をもちたい。

2020年8月23日日曜日

学校教育は失敗を経験する場

 今回のCOVID-19対策として、学校で「オンライン学習」という形をとってきた。

教師対子ども、あるいは子ども同士のコミュニケーション手段は、チームズというクローズドの中ではあるが、SNSである。


そうすると、SNS特有の様々なトラブルというのが、当然起きる。

肖像権や著作権等のルール違反も、当然起きる。


ここが大切なのである。

こちらからもある程度見えるクローズドの世界で起きるので、対応できる、指導ができる。

いきなりオープンなネットの世界で大失敗をしてしまうと、助けようもないし、取返しがつかない。


つまりは、学校が、ICTの活用やネットの世界に関連する様々なことの、練習になるのである。

いきなり本番よりも安心である。


データを見ると、小学校ではスマホ所持率は3割程度である。

しかし中学以降で子どもにスマホをもたせる家庭が7割を超える。

そこで持たせることに不安な保護者は多い。

当然である。


いきなりネットやSNSの世界に出ることになるので、危険なのである。

きちんとそこへの教育を受けた人間が出たのであれば、多少なりとも安心感が出る。

つまり今の時代、先に学校がICTやSNSに関する教育をする必要がある。


最初は、ある程度自由にさせてみる。

すると、問題が起きるので、制限をかけていく。

その制限がかかっている場でしばらく様子を見る。

上手くなってくるので、それらの規制を、段々と緩めていく。

通常の学級指導と同じである。


学校で、来たるべき危険への対処練習をしておくことが大切なのである。


これに関連して、長年問題となっているのが、日本の性教育である。

海外に比べて、学校教育で扱う範囲が大変小さい。

また、家庭教育でも「タブー」のようになっていて、更に範囲が小さい。

結局先延ばしして、見ないふりで終わり、という方向性である。


では子どもたちは実際それをどこで学び覚えるのかというと、インターネット上などの歪んだ性の世界である。

もちろんきちんと子どもの性の悩みに正対した心理カウンセリングなどのページも多くある。

しかし、そういったものとは違ったところから、誤った知識を先行して得てしまうというのが現状である。


これらは、学校におけるケガの大切さと根本は同じである。

学校で、仮に全くケガをしないように完璧な環境整備とルールの徹底をしたとする。

子どもは木や高いところから落ちることはないし、転ぶこともない。

小さなケガを全くしないのである。

こうした子どもたちが学校を卒業した後に直面する世界は、危険だらけである。


実際は、学校ではたくさん転ぶし、危険な目にもあう。

大怪我だけはないように細心の注意を払うが、小さなケガまでしないように全て制限してしまっては、体育などできようもない。

転ぶから、手をつけるようになるのである。

柔道でも、最初に学ぶのは受け身だし、自転車でもスノーボードでも、転び方からスタートである。


正しい知識を得て、正しい失敗への対処の仕方を学ぶ。

それがあって、初めて危険も多い外の世界に安心して踏み出せる。


失敗も含めて、学校でICTを活用し、疑似でもSNSを体験しておくべきである。

そのためには、環境整備。

今後は、GIGAスクール構想も本腰を入れていくようなので、期待していきたい。


学校は、社会に出る前の失敗を経験する場。

成功ばかりが注目されがちだが、失敗にこそ学校教育の本質があると考える次第である。

2020年8月21日金曜日

個人面談は宝の山

まぐまぐニュースでも取り上げられた記事。

 

個人面談をやっていると、度々子育ての素敵な話を伺える。

長年、通算何百人もの方々とやってきたので、素敵な子育てのコツをたくさん教えていただいてきた。

私だけが抱えていても宝の持ち腐れになるので、ごく一部だがシェアする。



1.「うちでは『お手伝い』はないのです。」

今でも尊敬する、初任の時の保護者の言葉。


「先生。うちでは『お手伝い』はないんですよ。

家の事は、全員がやるものなので。

手伝うのではなくて、それぞれの役割なのです。」


初任の時に子どもへ「家でお手伝いをしましょう」と言ったことへの箴言。

学級における当番活動の意義にも通ずる言葉である。



2.「うちでは、勉強をやれとは言いません。『クイズやる?』と言ってます。」


大変に思考力の高い子どもがいて、どうやってそれを育てているのか聞いた時に教えてもらったコツ。

勉強ではなく、楽しい算数クイズ合戦で、子どもが学校で習ったものを出すこともあり、うんうん唸って解き合うという。

子ども目線に立った、素敵な言葉がけである。



3.「夜、子どもの脚をさすってあげるんです。」


親子の強い信頼関係が感じられたので、何かしているのかと聞いた時に教えていただいたコツ。

ついつい何でも我慢しがちな子どもとのコミュニケーション手段だという。

ちなみにこれは決して「甘やかし」の類ではない。

夜、「脚が痛い」という子どもの脚をさすってあげると、ぽろぽろと出来事や悩みなどを話してくれるという。

身体も心も温まる素敵なコミュニケーション手段である。



4.「先生に全てをお任せしております。」

1年生から高学年まで、それまで所属した全ての学級で「崩れ」があった子どもの保護者の言。

さぞ学校不信が強いだろうと思っていた時に聞いたので、驚いた言葉。

ちなみにこの子どもは学業も優秀だが、幼少より続けている武道では全国大会一位をとっているほどの腕前。

何があっても「それも全て勉強」と割り切って、見守ってきたという。

ある意味、これを言われたらこちらはもう頑張るしかないという言葉。

こんな理想的な保護者を教員側が求めるのは図々しいにも程があるが、全てを「道」と割り切る強さを教えていただいた。


まだまだまだまだまだまだあるが、紹介するときりがないので一旦この辺で終わりにする。

(好評であれば、また紹介するかもしれない。)

個人面談は教師にとって、子育てについて学べる最高の場である。

2020年8月19日水曜日

「すぐに役立つ」は「すぐに陳腐化する」

タイトルは、アジア太平洋大学学長の出口治明氏の言葉。

(出典:出口治明が語る「リーダーが学ぶべき教養」 Audible)


ちなみにこれは、学生がプログラミング言語を習得するに際しての言葉である。

科学の進歩は、日進月歩。

大学を終えるまでにプログラミング言語を修得しても、それは既に使えなくなっている。

(iPhoneなど、コンピューターは新機種が続々出ることを例に考えるとわかるという。)


一方でリベラルアーツ(「一般教養」と訳されるが正確な定義なし)は、即座に役に立つことはない。

ただ、即座には役立たない広汎な学びが、後々にどこでどう役に立つかはわからない。

「専門馬鹿」にならないためには、必要なことである。


学校教育の世界においてこそ、これは言える。


「テストに出る」や「受験に役立つテクニック」は、即座に使える。

しかしながら、受験後や学校卒業後に使えるかというと、そうでないものが多い。


一方で、テストには出ないが興味をそそられるものもある。

卒業後には、先生が授業中に横道に逸れた時の、どうでもいいような話ばかり覚えているものである。


それで、それが後々に役立たたないかというと、そうとも言い切れない。

長い人生の中で、広汎な知識の何がどこでどう役立つかは、わからないのである。


学校では、テストの点数に直接反映しないものの方が、大切なことが多い。

例えばあいさつができることや礼儀正しいこと、掃除へ真摯に取り組む姿勢などは、テストの点数にはつながらない。

授業中、何のために今学んでいるのかを考えない方が、点数が取れるということも往々にしてある。

公式を違和感なく丸暗記してしまえる人と、納得いくまで考えないと使えない人では、後者の方が点数に結びつくまで時間がかかる。


しかしながら、これらのことの方が、長い目で見ると役立つことが多いのである。


「即座に役立つ」というのは、インスタントである。

促成栽培的な教育を考えると、この方が能率がいいように思えてしまう。

子どもの理解どうこうは置いておいて、小学校でもとにかく知識先行で詰め込む。

点数も取れて、安心という訳である。


ただ、そういう方法で学んだ知識は、剥落しやすい。

短期のテストだと点数に出るが、大きな実力テストだとイマイチ、というのは、この辺りに原因がある。


じっくり時間をかけて学んだことは、本質的に身に付きやすい。

また自らの興味から学んだことは、強く記憶に残る。

よく親からは「〇〇ばかりやっていて心配」という声が出るが、子どもが殊更に何か集中していることがあるなら、万々歳である。


(ちなみにこの○○について、ゲームは無条件には当てはめらないことが多い。

多くのゲームは、作り手が刺激となるエサを次々に用意して提供し続けているからハマるのであり、子ども発の本質的な集中力とは異なる。

脳科学的には「報酬系」というものを刺激し続けて依存を引き起こしている状態である。

「報酬系」をエサとして与えられているだけか、そうではないのか、どういう熱中の仕方をしているかという本質が大事である。)


教育する側にも当てはまる話である。


「こうすれば上手くいく」的なノウハウは、短期で結果が出ることがあるので、満足しやすい。

しかし、そこから本質的なことを学べないのであれば、害悪の方が大きい。

「以前はあれで上手くいった」ということに拘り始めるからである。


「ほめる教育」などは、その典型である。

言葉自体が甘くポジティブで、かつ即座に効果が出るので、良いものだと鵜呑みにしやすい。

しかしこれは間違えて使い続けると、取返しのつかない大やけどになる。

という記事を書いたこともあるが、あれである。

(参考記事:「100点答案」を褒めると勉強嫌いになる プレジデントオンライン


本質的には、ほめることが大切なのではなく、何をどうほめるか、が大切なのである。

「的確にほめる」というのは、実はかなり難易度が高い手法である。


教育者が学ぶべきは、ノウハウよりも、教養である。

他者を変えようとする研究よりも、自己を変えるための修養である。

バランスではあるが、やはり学校の研修現場を見ると、他者改善のノウハウの方に力を入れているように思えてならない。


すぐに役立つは、すぐに陳腐化する。

心に留めておきたい言葉である。 

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