赤坂真二先生によるクラス会議研究会での学び。
なぜ、クラス会議をやるのか。
冒頭で、そういう根本的な問いを投げかけられた。
グループで考えを出し合い、発表した。
クラス会議に限らず、何かしらの実践をする時には、必ず考えることである。
逆思考でいく。
それをやらないと、どうなるのか。
さらに、他のもので代用できるのではないか。
この二つの問いに答えられないと、「やらなくてよい」という結論になる。
価値を説明できないということになる。
例えば、ある商品を売りたいとする。
ものすごい「多機能」で「便利」なのだが、相手側が買うかどうかはそこではない。
それを買うと、生活がどう変わるか。
他の商品にはない独自の魅力は何か。
そこをお客さんの頭の中にわかりやすくストーリー化して想像させながら伝える必要がある。
商品に対する知識と自信がないと売れない所以である。
もし、自分で何かしら実践していることがあったら、問うてみる。
それをやらないとどうなるか。
他のもので代用できないか。
何のためにやっているかわからなくなった時にも、使える思考法であると思う。
2018年1月29日月曜日
納得感をもったルールのもたらす緊張感と安心感
ルールと自由についての考察。
あの大谷選手も実践している「原田メソッド」で有名な、原田隆史先生の言葉。
===============
仕事をする上での必要不可欠なルールから、
お互いが気分良く仕事に取り組めるような決まりごとまで、
組織に所属する人々が納得感を持って、自主的に、しかし意識的に取り組む約束事やルールは、職場に適度な緊張感と安心感を与えるのだ。
居心地の良さは、決まりごとが少なく、自由に過ごせるという環境から生まれるのではないのである。
================
心の底から、納得である。
特に最後の一文。
納得感をもてる約束事やルールがあるから、居心地が良い組織になるのである。
これまで何度も述べている通り、自由という言葉は、使い方を間違えると危ない。
例えば路上を通行するのも、きまりごとやマナーが数多くある。
歩道一つとっても、歩行者と自転車は分けられているし、様々な規制・規制がある。
交通ルールを破ったり路上で横暴をしたら、いつ警察に捕まるか分からない。
近くを通りかかった一般の人に注意されるかもしれない。
だからこそ、安全が担保されていて、安心して通行ができる。
交通ルールの存在には、納得感がある。
ここがないと、混乱して危険だらけになるのは目に見えているからである。
お互いに交通ルールを守れば、誰しもが快適に通行できるとわかっているからである。
警察の存在には、安心感がある。
いざとなったら悪をくじき、困っている人を助けてくれるからである。
逆にいえば、自分が法を侵すようなことをすれば、悪としてくじかれることも承知である。
適度な緊張感と安心感を与えてくれる。
また、狭い道で互いに譲り合うといったマナーも、安心感につながる。
教室にも、適度な緊張感と安心感が欲しい。
そのためには、子どもたちが納得感をもって、自主的に、意欲的に取り組む約束事やルール、共通理解されたマナーが必要である。
例えばクラス会議などは、それを実現する有効な手立てとなる。
一見厳しいようなルールでも、子どもたちが納得感をもっているものであれば、進んで従うものである。
クラス会議で子どもが作ったものには、過度に厳しいものが含まれることがある。
しかし、無理のあるものは、自然淘汰されるので、あまり心配せずとも大丈夫である。
そして、しっかりと見守る教師がいるからこそ、子どもに安心感が生まれているという事実から目を逸らさない。
自由な学級という耳に心地よいフレーズばかりにとらわれて、するべき指導を躊躇すれば、そこが小さな穴となる。
どんな立派な城も、最初の小さな穴から崩れる。
穴が空いても埋めようとすればいいのだが、放置しておけば穴はどんどん広がり、新しい穴もできる。
いくら子どもたちが納得して決めたルールだからといって、全員が必ず守るとは限らない。
「決めたルールは守る」ということを見守り、担保してくれる存在が必要である。
お金の場合を考えればわかる。
お金の貸し借りの場合、よほどの信頼関係がない限り、法とそれに基づく保証人が必要である。
ましてお互いがよく知らない他人同士であれば、情や口約束だけではとても成立しない。
裏切って逃げられても、信用した方がお金も心の面も大損するだけで、約束を破った者勝ちである。
そう考えると、特に学級づくりの初期段階では、子どもだけで自治するのはほとんどの場合、無理である。
ただいつまでも教師頼りでは困るので、最初は手も目もかけ、徐々に手放していくイメージである。
「最初は手をかけ目もかけルールを守らせていく」という点は、子育てと同じである。
子育てにおける難関は、あらゆるルールを身に付けさせるところである。
そこが愛情なのである。
最初は、排泄のルール。
トイレトレーニングは、苦労する子どもはかなり苦労する。(それが個性なのだから、違って当たり前である。)
厳しくいっても余計ダメ。
根気強く励まし、成功を褒めながら「排泄はトイレでする」ということを教えていくしかない。
愛情があるなら、できるようになるまで見守るし、「どこでしてもOK」とはならないのである。
他にも、眠る時間のルールや食事のルールなど、やるべきことは山積しており、親(特に母親)は休む暇がない。
これらを総じて「躾」という。
そこは、やり方は様々であれ、一つの訓練なのである。
母親が躾のすべてを担うのは厳しく、そこは父親なり他の人も見守り、必要なところは口を出していくのが望ましいバランスである。
母親が安心感を担保するとしたら、父親の役割は、適度な緊張感を与える存在となる。
そのバランスが、子どもにとって居心地のいい家庭となる。
特に思春期以降はこの役割分担が重要で、ここも徐々に手放していくというのが、大切なポイントである。
話がお金や子育てにまで広がってしまった。
納得感を持って意欲的に取り組むルールづくり。
適度な緊張感と安心感。
ルールを担保する教師の役割の重要性。
学級づくりにおいてのキーワードである。
あの大谷選手も実践している「原田メソッド」で有名な、原田隆史先生の言葉。
===============
仕事をする上での必要不可欠なルールから、
お互いが気分良く仕事に取り組めるような決まりごとまで、
組織に所属する人々が納得感を持って、自主的に、しかし意識的に取り組む約束事やルールは、職場に適度な緊張感と安心感を与えるのだ。
居心地の良さは、決まりごとが少なく、自由に過ごせるという環境から生まれるのではないのである。
================
心の底から、納得である。
特に最後の一文。
納得感をもてる約束事やルールがあるから、居心地が良い組織になるのである。
これまで何度も述べている通り、自由という言葉は、使い方を間違えると危ない。
例えば路上を通行するのも、きまりごとやマナーが数多くある。
歩道一つとっても、歩行者と自転車は分けられているし、様々な規制・規制がある。
交通ルールを破ったり路上で横暴をしたら、いつ警察に捕まるか分からない。
近くを通りかかった一般の人に注意されるかもしれない。
だからこそ、安全が担保されていて、安心して通行ができる。
交通ルールの存在には、納得感がある。
ここがないと、混乱して危険だらけになるのは目に見えているからである。
お互いに交通ルールを守れば、誰しもが快適に通行できるとわかっているからである。
警察の存在には、安心感がある。
いざとなったら悪をくじき、困っている人を助けてくれるからである。
逆にいえば、自分が法を侵すようなことをすれば、悪としてくじかれることも承知である。
適度な緊張感と安心感を与えてくれる。
また、狭い道で互いに譲り合うといったマナーも、安心感につながる。
教室にも、適度な緊張感と安心感が欲しい。
そのためには、子どもたちが納得感をもって、自主的に、意欲的に取り組む約束事やルール、共通理解されたマナーが必要である。
例えばクラス会議などは、それを実現する有効な手立てとなる。
一見厳しいようなルールでも、子どもたちが納得感をもっているものであれば、進んで従うものである。
クラス会議で子どもが作ったものには、過度に厳しいものが含まれることがある。
しかし、無理のあるものは、自然淘汰されるので、あまり心配せずとも大丈夫である。
そして、しっかりと見守る教師がいるからこそ、子どもに安心感が生まれているという事実から目を逸らさない。
自由な学級という耳に心地よいフレーズばかりにとらわれて、するべき指導を躊躇すれば、そこが小さな穴となる。
どんな立派な城も、最初の小さな穴から崩れる。
穴が空いても埋めようとすればいいのだが、放置しておけば穴はどんどん広がり、新しい穴もできる。
いくら子どもたちが納得して決めたルールだからといって、全員が必ず守るとは限らない。
「決めたルールは守る」ということを見守り、担保してくれる存在が必要である。
お金の場合を考えればわかる。
お金の貸し借りの場合、よほどの信頼関係がない限り、法とそれに基づく保証人が必要である。
ましてお互いがよく知らない他人同士であれば、情や口約束だけではとても成立しない。
裏切って逃げられても、信用した方がお金も心の面も大損するだけで、約束を破った者勝ちである。
そう考えると、特に学級づくりの初期段階では、子どもだけで自治するのはほとんどの場合、無理である。
ただいつまでも教師頼りでは困るので、最初は手も目もかけ、徐々に手放していくイメージである。
「最初は手をかけ目もかけルールを守らせていく」という点は、子育てと同じである。
子育てにおける難関は、あらゆるルールを身に付けさせるところである。
そこが愛情なのである。
最初は、排泄のルール。
トイレトレーニングは、苦労する子どもはかなり苦労する。(それが個性なのだから、違って当たり前である。)
厳しくいっても余計ダメ。
根気強く励まし、成功を褒めながら「排泄はトイレでする」ということを教えていくしかない。
愛情があるなら、できるようになるまで見守るし、「どこでしてもOK」とはならないのである。
他にも、眠る時間のルールや食事のルールなど、やるべきことは山積しており、親(特に母親)は休む暇がない。
これらを総じて「躾」という。
そこは、やり方は様々であれ、一つの訓練なのである。
母親が躾のすべてを担うのは厳しく、そこは父親なり他の人も見守り、必要なところは口を出していくのが望ましいバランスである。
母親が安心感を担保するとしたら、父親の役割は、適度な緊張感を与える存在となる。
そのバランスが、子どもにとって居心地のいい家庭となる。
特に思春期以降はこの役割分担が重要で、ここも徐々に手放していくというのが、大切なポイントである。
話がお金や子育てにまで広がってしまった。
納得感を持って意欲的に取り組むルールづくり。
適度な緊張感と安心感。
ルールを担保する教師の役割の重要性。
学級づくりにおいてのキーワードである。
2018年1月27日土曜日
8の字跳びの隠れたコツ 常にジョギングのススメ
最近すっかり書いてない、8の字跳びについて。
なぜ書いてないかというと、現任校でほとんど実践の機会がないからである。
(本校では校内大会は低学年のみである。)
以前、8の字跳びの10の基本技術という形でまとめた記事がある。
これが大分読まれているようで、かなり広まっている。
しかし、である。
実は、ちょっと、修正した方がいいと思う点が実はある。
列の詰め方のところである。
くっつくぐらい詰める、と書いたが、より良い方法がある。
「走りながら徐々に前に詰める」という方法である。
要は、止まらないで、助走をつけて縄に入るということである。
だから、跳ぶ5人前ぐらいから、常に軽く「走っている」状態となる。
前後が多少離れることになっても、この方が縄には入りやすい。
そうなると、前後は完全にくっついた状態ではなく、やや離れた状態になる。
なぜこの方が良いのか。
初速が違うからである。
歩いて詰めていくと、速度0から一気に加速しないといけなくなる。
一方、ジョギングに近いこの状態だと、すでにある程度の加速ができている。
そして、縄に入る瞬間はスムーズにダッシュできる。
全く縄に入るタイミングがとれないレベルでなければ、こちらの方が良い。
(というより、レベルが上がると自然にこの動きをするようになる。
軽く助走をしていないと縄の回転速度が速すぎて入るのに間に合わないからである。)
ここを理解していると、1度ひっかった直後はまたすぐひっかかるという法則の理由もよくわかる。
リズムが崩れるだけでなく、初速自体が遅くなる(初速0になる)ためである。
つまり、一人目だけでなく、二人目も三人目も「初速0」になっているためである。
要は、常に軽くジョギングさせればよいのである。
本当は5人前ぐらいで十分なのだが、低学年だと特によく忘れる。
私が2年生を指導した時は、常に足踏みジョギングで列を整えていくという約束にしていた。
(人数も多かった上に、それほど速い回転ではなかっため、それでバテることはなかった。)
初速を上げてリズムを作るための一工夫である。
なぜ書いてないかというと、現任校でほとんど実践の機会がないからである。
(本校では校内大会は低学年のみである。)
以前、8の字跳びの10の基本技術という形でまとめた記事がある。
これが大分読まれているようで、かなり広まっている。
しかし、である。
実は、ちょっと、修正した方がいいと思う点が実はある。
列の詰め方のところである。
くっつくぐらい詰める、と書いたが、より良い方法がある。
「走りながら徐々に前に詰める」という方法である。
要は、止まらないで、助走をつけて縄に入るということである。
だから、跳ぶ5人前ぐらいから、常に軽く「走っている」状態となる。
前後が多少離れることになっても、この方が縄には入りやすい。
そうなると、前後は完全にくっついた状態ではなく、やや離れた状態になる。
なぜこの方が良いのか。
初速が違うからである。
歩いて詰めていくと、速度0から一気に加速しないといけなくなる。
一方、ジョギングに近いこの状態だと、すでにある程度の加速ができている。
そして、縄に入る瞬間はスムーズにダッシュできる。
全く縄に入るタイミングがとれないレベルでなければ、こちらの方が良い。
(というより、レベルが上がると自然にこの動きをするようになる。
軽く助走をしていないと縄の回転速度が速すぎて入るのに間に合わないからである。)
ここを理解していると、1度ひっかった直後はまたすぐひっかかるという法則の理由もよくわかる。
リズムが崩れるだけでなく、初速自体が遅くなる(初速0になる)ためである。
つまり、一人目だけでなく、二人目も三人目も「初速0」になっているためである。
要は、常に軽くジョギングさせればよいのである。
本当は5人前ぐらいで十分なのだが、低学年だと特によく忘れる。
私が2年生を指導した時は、常に足踏みジョギングで列を整えていくという約束にしていた。
(人数も多かった上に、それほど速い回転ではなかっため、それでバテることはなかった。)
初速を上げてリズムを作るための一工夫である。
2018年1月25日木曜日
目的と目標と手段の区別をする
学級経営のコツ。
目的と目標と手段の区別について。
このブログ上では再三書いていて人によっては耳にタコ、あるいは釈迦に説法かもしれない話の確認から。
目的と目標は違う。
目的はまさに目指すべきゴールである場所。
海賊にとっての宝島である。
一方の目標は、「標」が「木の立て札」の語源の通り、そのための道標となるもの。
海賊にとっては、宝島に辿り着くための途中地点や目印である。
大体あっちに向かうらしいということがわかるものが目標である。
当面の目標を実現するためにとるのが手段である。
最初の島に行くのにいきなり難破は困るから、まずは天候や方角を読める航海士を仲間に入れるとか、そういうことである。
校内の縄跳び大会を例にして考えてみる。
クラス全員の心技体を鍛えることが目的。
そのための目標が優勝。
目標達成の手段として、モチベーションを保つために8の字跳びの練習の成果を可視化するためのグラフを利用する。
そんなイメージである。
学級におけるすべての活動に、この意識をもつことである。
目的は「何のために」とも言い換えられる。
目標は「何を」にあたる。
手段は「どのように」である。
「何のために」「何を」「どのように」を選択する。
前々号で紹介した河邊氏の「鉛筆1本」の活動を考えてみる。
何のために=ありがとうがあふれるクラスづくりのために
何を=あらゆるもの・人を大切にすることを
手段=鉛筆1本だけを使うルールを用いていくことで実現する
という感じになる。(私の勝手な分析であり、ご本人がどう考えているかは知らない。)
どんな活動でも、これに当てはめて考えることができる。
逆にいうと、これが具体的に答えられない活動の場合、意味がない、あるいは害悪の出る可能性がある。
うまくいかない場合は、目的か目標か手段のどれかを間違えているのである。
その場合、この根本を変えないと、何度やってもうまくいかないという結果が天地自然の原理できちんと出る。
例えば、良い授業をしようとして楽しいネタを用意しているのに、子どもがのってこずに全然うまくいかないという悩みがあるとする。
目的=良い授業をする
目標=子どもがのってくること
手段=子どもが食いつきそうなネタを用意する
となっている。
一体、どこがまずいのか。
長くなったので、次号に続く。
目的と目標と手段の区別について。
このブログ上では再三書いていて人によっては耳にタコ、あるいは釈迦に説法かもしれない話の確認から。
目的と目標は違う。
目的はまさに目指すべきゴールである場所。
海賊にとっての宝島である。
一方の目標は、「標」が「木の立て札」の語源の通り、そのための道標となるもの。
海賊にとっては、宝島に辿り着くための途中地点や目印である。
大体あっちに向かうらしいということがわかるものが目標である。
当面の目標を実現するためにとるのが手段である。
最初の島に行くのにいきなり難破は困るから、まずは天候や方角を読める航海士を仲間に入れるとか、そういうことである。
校内の縄跳び大会を例にして考えてみる。
クラス全員の心技体を鍛えることが目的。
そのための目標が優勝。
目標達成の手段として、モチベーションを保つために8の字跳びの練習の成果を可視化するためのグラフを利用する。
そんなイメージである。
学級におけるすべての活動に、この意識をもつことである。
目的は「何のために」とも言い換えられる。
目標は「何を」にあたる。
手段は「どのように」である。
「何のために」「何を」「どのように」を選択する。
前々号で紹介した河邊氏の「鉛筆1本」の活動を考えてみる。
何のために=ありがとうがあふれるクラスづくりのために
何を=あらゆるもの・人を大切にすることを
手段=鉛筆1本だけを使うルールを用いていくことで実現する
という感じになる。(私の勝手な分析であり、ご本人がどう考えているかは知らない。)
どんな活動でも、これに当てはめて考えることができる。
逆にいうと、これが具体的に答えられない活動の場合、意味がない、あるいは害悪の出る可能性がある。
うまくいかない場合は、目的か目標か手段のどれかを間違えているのである。
その場合、この根本を変えないと、何度やってもうまくいかないという結果が天地自然の原理できちんと出る。
例えば、良い授業をしようとして楽しいネタを用意しているのに、子どもがのってこずに全然うまくいかないという悩みがあるとする。
目的=良い授業をする
目標=子どもがのってくること
手段=子どもが食いつきそうなネタを用意する
となっている。
一体、どこがまずいのか。
長くなったので、次号に続く。
2018年1月23日火曜日
学級経営のコツは、地味で地道。
前号の「鉛筆1本を大切にする」という話の続き。
学級担任に限らず、何の仕事でも、やるべきことは「無限」にある。
あれもこれもはできない。
だから「1点突破」は基本的な戦略である。
「そんなこと、どうでもよくない?」と言われそうなことを、徹底してやる。
河邊氏の本を推薦している鍵山秀三郎氏の言だが、これを
「凡事徹底」
という。
私は、とても徹底までは至らないが、教育の場面において譲らないところがいくつかある。
「別に、そんな細かいところ・・・」で終わらせない。
陰で口うるさいと言われようが、裏でぶつぶつ愚痴られようが、しつこくやるし、言う。
よく「学級経営のコツを教えてください」といった類のざっくりとした悩み相談を受けるが、実はこの辺りが答えになる。
一見どうでもよさそうな細かいところに、コツが眠っている。
例えば、掃除の時間。
子どもたちは「隅っこ」や「見えない所」が気になっているか。
ほこりがたまっている箇所を見つけられるか。
具体例を挙げると
・ゴミ箱や教師用机の下
・部屋の四隅
・カーテンレールや窓、出入り口の上の桟の部分
・掃除用具箱の中
・ゴミ箱やバケツの中
等々である。
私がいつも気になるのが、ほうきそのものについたほこりである。
毛櫛で取らずに、ぽんと掃除用具に入れていることがある。
(自分の学級でも未だにある。徹底ができていない。)
ほうきの役割は立ってやれる分、床拭きの子どもよりも姿勢が楽なのだから、最後に道具のほこりを取るぐらいはさせたい。
なぜここにこだわるかというと、次につながるからである。
要は、ほうきのほこりを取るという行為が、次の準備になる。
次に使う人への配慮にもなる。
道具の本来の力を発揮でき、作業能率も上がる。
使う前にきれいだったのだから、使った後もきれいにしようという気になる。
そして、こういった態度が、他のあらゆることに波及しだす。
次につながる好循環の始まりである。
逆をいえば、ほうきのほこりを取らないだけで、悪循環の始まりになり、波及する。
先に挙げた利点を逆さにして読むことになる。
たかがほうきのほこり取り一つでも、徹底するのは意外と難しい。
ただ、ここ1点を突破しただけで、他のかなりのことが違ってくる。
学級経営のコツとかいうと、一発逆転のすごいテクニックがあると思っている人もいるかもしれない。
実は、こういう地味なところを、放置せずに詰めていけるかどうかにある。
教育実習生などには、しつこく伝えているが、実際やってみないと実感はもてないだろうとは思っている。
服装や持ち物、言葉遣いといった細かいことを注意するのも、こういうことを考えた上である。
学級経営のコツは、地味で地道。
派手で劇的な方法を求めてしまうならば、ぜひ伝えておきたい事である。
学級担任に限らず、何の仕事でも、やるべきことは「無限」にある。
あれもこれもはできない。
だから「1点突破」は基本的な戦略である。
「そんなこと、どうでもよくない?」と言われそうなことを、徹底してやる。
河邊氏の本を推薦している鍵山秀三郎氏の言だが、これを
「凡事徹底」
という。
私は、とても徹底までは至らないが、教育の場面において譲らないところがいくつかある。
「別に、そんな細かいところ・・・」で終わらせない。
陰で口うるさいと言われようが、裏でぶつぶつ愚痴られようが、しつこくやるし、言う。
よく「学級経営のコツを教えてください」といった類のざっくりとした悩み相談を受けるが、実はこの辺りが答えになる。
一見どうでもよさそうな細かいところに、コツが眠っている。
例えば、掃除の時間。
子どもたちは「隅っこ」や「見えない所」が気になっているか。
ほこりがたまっている箇所を見つけられるか。
具体例を挙げると
・ゴミ箱や教師用机の下
・部屋の四隅
・カーテンレールや窓、出入り口の上の桟の部分
・掃除用具箱の中
・ゴミ箱やバケツの中
等々である。
私がいつも気になるのが、ほうきそのものについたほこりである。
毛櫛で取らずに、ぽんと掃除用具に入れていることがある。
(自分の学級でも未だにある。徹底ができていない。)
ほうきの役割は立ってやれる分、床拭きの子どもよりも姿勢が楽なのだから、最後に道具のほこりを取るぐらいはさせたい。
なぜここにこだわるかというと、次につながるからである。
要は、ほうきのほこりを取るという行為が、次の準備になる。
次に使う人への配慮にもなる。
道具の本来の力を発揮でき、作業能率も上がる。
使う前にきれいだったのだから、使った後もきれいにしようという気になる。
そして、こういった態度が、他のあらゆることに波及しだす。
次につながる好循環の始まりである。
逆をいえば、ほうきのほこりを取らないだけで、悪循環の始まりになり、波及する。
先に挙げた利点を逆さにして読むことになる。
たかがほうきのほこり取り一つでも、徹底するのは意外と難しい。
ただ、ここ1点を突破しただけで、他のかなりのことが違ってくる。
学級経営のコツとかいうと、一発逆転のすごいテクニックがあると思っている人もいるかもしれない。
実は、こういう地味なところを、放置せずに詰めていけるかどうかにある。
教育実習生などには、しつこく伝えているが、実際やってみないと実感はもてないだろうとは思っている。
服装や持ち物、言葉遣いといった細かいことを注意するのも、こういうことを考えた上である。
学級経営のコツは、地味で地道。
派手で劇的な方法を求めてしまうならば、ぜひ伝えておきたい事である。
2018年1月21日日曜日
鉛筆1本を大切にするクラスづくり
次の本を読んだ。
『「ありがとう!」があふれる幸せなクラスづくり大作戦』
河邊 昌之 著 明治図書
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-115815-6
友人の河邊氏の初の単著である。
「感謝」を柱とした学級経営の具体的なアイデアが提案されている。
この本の中に「鉛筆1本活動」という実践がある。
簡単に言うと、もってくる鉛筆を1本だけにするというもの。
落とし物No.1の鉛筆を「落とさないようにさせる」という方向の解決にもっていく。
「たかが鉛筆の落とし物ぐらい」と思うかもしれない。
しかし、鉛筆1本を大切にすることの波及効果はとてつもなく大きい。
実は河邊氏は、単に鉛筆の落とし物をなくそうとしているのではない。
ここから、「ありがとう!」があふれる幸せなクラスの柱を作るのである。
鉛筆が1本しかない。
当然、大切に使うようになる。
その1本がないと書けないので、落としたらすぐに気付く。
大切にすると、名前をつけたくなる。
名前をつけると、捨てたくなくなる。
捨てたくないので、限界まで使うようになる。
どうしても使えなくなっても、捨てずに「学習の足跡」のような形でとっておきたくなる。
(河邊学級では、掲示物として残されるようになる。)
仲間の鉛筆がどれかもわかるようになるので、万一落としても本人にすぐ届く。
さて、ここまでは鉛筆の話である。
鉛筆にとどまらない。
鉛筆を大切にすると、次々と他のものも大切にするようになる。
ものを大切にするようにすると、人も大切にするようになる。
頭と心も使うようになる。
結果、幸せなクラスづくりにつながっていく。
捨てない工夫をする。
それは、無暗に新しいものを使わないということにもつながる。
これは実は「捨てる」ということと同義である。
新しく余計なものを買うという選択肢を「捨てる」からである。
たかが鉛筆一つにこだわることで、クラスづくりになる。
ここがわかっていないと、些細だけど大切なことを落とし、クラスを荒らすことにもなる。
自分のクラスの何が悪いかわからない、という悩みを抱える方にも、おすすめの本である。
『「ありがとう!」があふれる幸せなクラスづくり大作戦』
河邊 昌之 著 明治図書
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-115815-6
友人の河邊氏の初の単著である。
「感謝」を柱とした学級経営の具体的なアイデアが提案されている。
この本の中に「鉛筆1本活動」という実践がある。
簡単に言うと、もってくる鉛筆を1本だけにするというもの。
落とし物No.1の鉛筆を「落とさないようにさせる」という方向の解決にもっていく。
「たかが鉛筆の落とし物ぐらい」と思うかもしれない。
しかし、鉛筆1本を大切にすることの波及効果はとてつもなく大きい。
実は河邊氏は、単に鉛筆の落とし物をなくそうとしているのではない。
ここから、「ありがとう!」があふれる幸せなクラスの柱を作るのである。
鉛筆が1本しかない。
当然、大切に使うようになる。
その1本がないと書けないので、落としたらすぐに気付く。
大切にすると、名前をつけたくなる。
名前をつけると、捨てたくなくなる。
捨てたくないので、限界まで使うようになる。
どうしても使えなくなっても、捨てずに「学習の足跡」のような形でとっておきたくなる。
(河邊学級では、掲示物として残されるようになる。)
仲間の鉛筆がどれかもわかるようになるので、万一落としても本人にすぐ届く。
さて、ここまでは鉛筆の話である。
鉛筆にとどまらない。
鉛筆を大切にすると、次々と他のものも大切にするようになる。
ものを大切にするようにすると、人も大切にするようになる。
頭と心も使うようになる。
結果、幸せなクラスづくりにつながっていく。
捨てない工夫をする。
それは、無暗に新しいものを使わないということにもつながる。
これは実は「捨てる」ということと同義である。
新しく余計なものを買うという選択肢を「捨てる」からである。
たかが鉛筆一つにこだわることで、クラスづくりになる。
ここがわかっていないと、些細だけど大切なことを落とし、クラスを荒らすことにもなる。
自分のクラスの何が悪いかわからない、という悩みを抱える方にも、おすすめの本である。
2018年1月19日金曜日
薬を飲む前に
ある日電車に乗ると、各社の胃薬の広告だらけであった。
「飲んでスッキリ!これで忘年会もOK!」
「胃痛がしたら、これ1本!」
といった広告が立ち並ぶ。
なるほど、胃薬に助けられている人が多いのだということがよくわかる。
広告を出すのは、売れるという算段があってこそ。
ただ、これではいけないと感じた。
薬を飲むという行為は、あくまで苦痛回避の緊急手段である。
「胃をおかしくする生活習慣」という根本の原因をどうにかしないといけない。
悩みを一発解決してくれるものを求めてしまうのは仕方がない。
薬のような劇的な効果である。
しかし、劇的な効果のあるものは、必ずといっていいほど副作用がある。
症状によっては薬は毒になる。
薬は本来病気を治すものではなく、耐え難い苦痛を一時的に和らげるものである。
健康に関する生活習慣の根本改善は、
食事、運動、睡眠である。
3つの内の1つではなく、3つともである。
どれかを欠いた方法は根本的解決にならない。
必要な栄養をとって、適度な運動をして、必要な量眠る。
当たり前のことを地道にやるのが、一番効果的である。
子どもたちは「○○ができるようになりたい」と願っている。
学校はそういう場なのだし、当然である。
ただ、勉強でも運動でも習い事でもそうなのだが、何か劇的にうまくいく方法があると思っていることが多い。
道具がどうだとか、教え方がどうだとか、周りの友達がどうだとか、色々に原因を求めている心がある。
要は、問題解決に薬を求めているのと同じである。
この心の状態だと、何をやってもうまくいかない。
自助努力が先にあってこそである。
うまい方法を教えてもらう前に、自分でやるべきことをやる。
向寒マラソンや縄跳びによる体力向上期間に、よく子どもにする例え話がある。
「速く走れるようになりたいなら、本人が走る以外ない」という話である。
親や先生や友達が、どんなにがんばって教えても、本人が走らないことにはどうしようもない。
努力もしないでうまくいく方法を教えてくれというのは、そういう状態を指す。
立ち返って、仕事にも適用できる。
何か、そういう姿勢の自分がいないか。
もっと周りが〇〇だったら、うまい方法があるはずだ、と考えすぎていないか。
その前に、自分がやるべきことをやる。
当たり前のことをきちんとやる。
それができれば苦労ない、を苦労してやるのが、王道ではないか。
生活習慣を改善しようともせずに、劇的に効く胃薬を求め続けるような生き方は避けたい。
「飲んでスッキリ!これで忘年会もOK!」
「胃痛がしたら、これ1本!」
といった広告が立ち並ぶ。
なるほど、胃薬に助けられている人が多いのだということがよくわかる。
広告を出すのは、売れるという算段があってこそ。
ただ、これではいけないと感じた。
薬を飲むという行為は、あくまで苦痛回避の緊急手段である。
「胃をおかしくする生活習慣」という根本の原因をどうにかしないといけない。
悩みを一発解決してくれるものを求めてしまうのは仕方がない。
薬のような劇的な効果である。
しかし、劇的な効果のあるものは、必ずといっていいほど副作用がある。
症状によっては薬は毒になる。
薬は本来病気を治すものではなく、耐え難い苦痛を一時的に和らげるものである。
健康に関する生活習慣の根本改善は、
食事、運動、睡眠である。
3つの内の1つではなく、3つともである。
どれかを欠いた方法は根本的解決にならない。
必要な栄養をとって、適度な運動をして、必要な量眠る。
当たり前のことを地道にやるのが、一番効果的である。
子どもたちは「○○ができるようになりたい」と願っている。
学校はそういう場なのだし、当然である。
ただ、勉強でも運動でも習い事でもそうなのだが、何か劇的にうまくいく方法があると思っていることが多い。
道具がどうだとか、教え方がどうだとか、周りの友達がどうだとか、色々に原因を求めている心がある。
要は、問題解決に薬を求めているのと同じである。
この心の状態だと、何をやってもうまくいかない。
自助努力が先にあってこそである。
うまい方法を教えてもらう前に、自分でやるべきことをやる。
向寒マラソンや縄跳びによる体力向上期間に、よく子どもにする例え話がある。
「速く走れるようになりたいなら、本人が走る以外ない」という話である。
親や先生や友達が、どんなにがんばって教えても、本人が走らないことにはどうしようもない。
努力もしないでうまくいく方法を教えてくれというのは、そういう状態を指す。
立ち返って、仕事にも適用できる。
何か、そういう姿勢の自分がいないか。
もっと周りが〇〇だったら、うまい方法があるはずだ、と考えすぎていないか。
その前に、自分がやるべきことをやる。
当たり前のことをきちんとやる。
それができれば苦労ない、を苦労してやるのが、王道ではないか。
生活習慣を改善しようともせずに、劇的に効く胃薬を求め続けるような生き方は避けたい。
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