2019年10月14日月曜日

訓導して厳ならざるは師の怠りなり

教育実習で話したこと。
教えるべきは教えるということについて。

子を養いて教えざるは父の過ちなり
訓導して厳ならざるは師の怠りなり

毛涯章平先生という、長野県の先生のお話から知った言葉である。
『古文真宝』という中国の書物にある言葉だという。

教育において、ゆるがせにしないこと。
それは「教えるべきは教える」ということである。
まして、師という立場にあるのならば、厳として教える、ということである。
それをしないのは、怠け、怠りであるというお叱りの言葉である。

思えば、他人に対し、甘い、「優しい」というのは、楽である。
だから「大好き」となりやすい。
(「 」書きにしたのは、それが本来の意味とは異なるからである。)

これは、相手に媚びている姿勢である。
厳しいことを言わなければ、嫌われる心配もない。
「仲良しこよし」「友達親子」みたいな関係でいたら、楽である。

しかし、何のための師なのか。
その役目なら、本当の友達で十分である。
厳として導いてくれるからこそ、我が子を師の元へ修行に出す意味がある。

例えば職人のような専門家であっても、我が子に教えるのは難しい。
一度外に修行に出すのが常である。
「厳に訓導」してくれるからである。

これは師の野口芳宏先生の言葉だが、子どもへの教えは「常時善導」である。
学校に来て、来る前よりよくなって帰らないと意味がない。
教えるべきをきちんと教えたのかということが問われる。

教えることの「いの一番」にあげるべきが、礼儀である。
なぜなら、これは教わらないと「未知」になるからである。
知らないことは、できっこない。

礼儀は、考える余地を与えない。
文化ごとの決まり事、ルールだからである。
例えばある国では「内ポケットに手を入れない」というのは、命に関わるマナー、礼儀である。
(拳銃を出すと誤解され、撃たれる可能性がある。)
そんなこと、教えてもらわなければわかるはずもない。

だから、礼儀は確実に教えないといけない。
それで将来的に恥をかいたり苦労をするのは、教わらなかった子どもである。
実習生に対しても同様で、実習指導教官がそこにいい加減だと、後でとんでもない恥をかいたり、苦労したりする可能性がある。

成人している相手にあれこれ口うるさく言うのは、億劫である。
それでも素直な相手ならまだいいが、全員がそうとは限らない。
反抗されたりふてくされたりされたら、誰でも嫌になる。

それでも厳として教えるというのが、本来の「師」の姿である。
伝え方も大事であるが、言うべきを言わないというのは一番いけない。
それは、職務上の極めて重大な責務である。

これは本来、保護者に対しても同様である。
それが子どものためであれば、言うべきを言う。
しかし、保護者は、人によっては、より言いにくい。
先の例のように「教える、教わる」の関係にないからである。

誰に対してもそうだが、保身に走れば、確実にお茶を濁す形になる。
そこを、どう越えるか。
言うべきを言う。
教師という職務への信念・教育観といったものが試される部分である。

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