2019年8月11日日曜日

自由な学級とは

自由。
この言葉ぐらい、解釈次第で毒にも薬にもなる言葉も珍しい。
(対抗馬は「愛」ぐらいかもしれない。)

最近、自由な学級とはどうあるべきか、ということがずっと関心事である。
これは、どちらの視点かで、変わってくる。

担任視点でいうと、自由度とは「懐の深さ」である。
子ども視点でいうと、自由度とは「裁量権の広さ」である。

担任からすると、どこまで許容できそうか、ということが自由度である。
放っておいても整列して教室移動ができそうか。
席替えを自由にしてもうまくいきそうか。
必要な秩序は保ちつつ、どこまで任せられるか、という塩梅である。

子どもからすると、逆にどこまで自分たちに任せらるかである。
やることが完全に決まっているなら、自由度は低い。
例えば校外学習。
列に並んで一つずつの場所を見学するのか。
決められた範囲を自分たちの計画で動けるのか。
自由度は全く違う。

どうすれば自由度を高められるのか。
自分で責任をとれるほど、自由度が高まる。
相手からの信用が高まるほど、自由度が高まる。
(銀行の融資と同じである。)

逆説的だが、きまりを当たり前に守れる集団ほど、自由になれる。
自由を履き違えて他人に迷惑をかけるほど、制限が増え、不自由になる。
(一般社会と同じである。)

自治的学級とは、「自治」の文字通り、自らが治める学級である。
守るべききまりというのも、ルールというよりほぼマナーに近い。
互いを不快にするような行動をとる場合、自治よりもトップダウンの統制の方がよい。
徐々に自由度を高める方向を目指す。

そうなると、まずは、指導力。
自由を目指すにしても、一斉に指導してまとめる力がないと、やはりきつい。
なぜなら、多くの場合、最初から任せられるような、互恵の関係性がうまくつくれないからである。
子ども同士をつなぐ指導力が必要である。

そして学校自体に空間的、時間的制約がある以上、完全な自由はない。
学校という枠の中の自由である。
その中でも、やれることはたくさんある。

今、目の前の子どもたちを自由にすべきか、統制すべきか。
何でも自由がいい訳でも、いつまでも統制していていい訳でもではない。
学級担任には、その辺りの判断が大切である。

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