2019年2月26日火曜日

自信と他者の尊重は同義

自信をもつということと、子どもを信頼して尊重するといういうこと。
今から2つのことを述べるが、どちらも本質的には同じ1つのことである。

今年度も色々な人から話を聞いたり相談を受けたりしてきた。
周りを見てもそうだが、どうにも自信のない人が結構多い。
「自分なんて」という感じである。

一見謙虚なようだが、これは逆だと考える。
天から折角与えられたものに対し、不平・不満を述べているともいえる。
そもそも、自分の意思で心臓一つ動かせないし、食物の消化もできない存在なのである。
自分の身にぶつくさ文句を言ってようが、気にしようがしまいが、身体はすべてオートでやってくれる。
脳はオートでものを覚えてくれる。
何もしていないのに、どれだけ高性能・高機能なものをいただいているのか。
とても文句を言えたものではない。

年末の道徳の授業で、1年生の子どもたちに、次の言葉を教えた。
遺伝子工学の第一人者、筑波大学名誉教授の村上和雄先生の言葉である。

「一つの命が生まれる確率は、1億円の宝くじが100万回連続して当たることに匹敵する。」

自分が生まれてくる前の世界の、たった一つでも何かがずれていたら、自分はこの世に存在しないのである。
生まれてきた時点で、もう宇宙レベルにラッキーなスーパーエリートの一人である。
何と言っても、1億円宝くじ連続100万回当選に相当する幸運の持ち主なのである。

「自分なんて」などと言っていい訳がないのである。
一度生まれてきた人間には、必ず使命がある。
折角いただいたこの身に文句を言う暇があったら、使命を果たすべく動くのである。
そうでなければ、何のために生まれてきたかわからない。

子どもをやたら心配するな、手を出すなという話にも通ずる。
あなたが素晴らしい存在であると同様、子どもも素晴らしい存在である。
自分が腹を痛めて生んだ子どもであっても、決して所有物ではない。
(いわんや父親においてをや。手をかけずに口だけ出すのは「ダメオヤジあるある」である。)

子どもには、その子ども独自の使命がある。
親が立派だから子も立派、とは限らない。
逆に、子どもは幼少期に親の言うことをきくが、大人になってからも手本とすべき相手かどうかは、見極めが必要である。

たまたま大人が「先に生きて」いるから、ものを教えられるだけである。
大人の方が存在としての価値が上な訳でも、大人が道徳的に高い訳でもない。
あくまで、先に生きててものを知ってる分、世話をさせてもらえるだけである。
魂レベルで見た場合、相手の方が上かもしれないという思いは忘れないことである。
(同様に「年下の先生」という状況も十分に有り得る。単にその道の先達だからである。)

自信をもつこと。
他者を尊重すること。
これらは同義である。

自分ができなかったことよりも、できたことを思い返したい。

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