前号の、選択肢の話と関連。
選択肢のない状況のメリットと授業への応用。
人間は、選択肢の多さに幸福を感じる訳ではない。
自分が納得した、あるいは選んでいるという「感覚」だけが重要である。
どういうことか。
仕事が最もわかりやすい。
自分が本当にやりたくて選んだ仕事なのか。
条件等から、やむなく、仕方なく選んだ仕事なのか。
やりたい仕事であれば、かなりの労力も、大変だが苦にはならない。
そうでない場合、理不尽に感じることが増え、徒労感が増える。
たとえ後者であっても、やっている内に納得した場合、苦にならなくなる。
また、条件で絞った後に、なおたくさんの選択肢が残ってしまった場合、更に悩みは多くなる。
もしかしたら選んだものより他のものの方が、良かったのではないかと苦悩するからである。
逆に、自分で考え抜いた末に、選択肢がこれしかないというところであれば、嫌でも納得はできる。
それしかないからである。
やるしかない。
悩みようがない。
物質的豊かさが不幸を生むという矛盾の原理もこれである。
本来、物質的に豊かな方が、幸せなはずである。
しかし、もっと多くの物質的幸福があると思うと、欠乏感を引き起こす。
欲はエネルギーにもなるが、これは果てしなく、終わりがない。
「足るを知る」が幸福感の要点といわれる所以である。
腹の底から納得している、ということである。
なお、本当はもっと別のものが欲しいけど我慢しているのは、幸福感につながらない。
それは、欲に囚われた状態である。
授業でもこれは応用できる。
つまり、やることが明確かどうかである。
これをやる、とわかっていれば、集中できる。
一方、やることが曖昧であれば、当然思考は拡散する。
自由がいいというのは、この拡散的思考を求める場合である。
何かの知識や技能を身に付ける場合は、集中力の方が圧倒的に大切である。
つまり、授業で明確に教える内容がある場合、
納得してやるべきことに集中している
という状態が作れればベストである。
試験前などは、誰でも自然とこの状態になりやすくなる。
勉強しないで遊ぼうという選択肢がなくなる。
実際は、遊びに行くこともできるのにも関わらずである。
日常的に勉強や練習等を続けられる子どもは、この納得感を自分の中にもっている。
自分が放課後に毎日数時間の鍛練をするのは、当然だと思っている。
なぜなら、そこには目標が明確に存在するからである。
なりたい自分が存在するからである。
世のため、人のために役に立つ自分になりたい、という他者貢献をもつ子どもすらいる。
そのためには、他に選択肢がないのである。
それが、幸福感、あるいは充実感の要因である。
選択肢自体は、少なくてもいい。
自分で選んでいるという、納得感、肚落ち感。
ここを感じられるようにすることが、学級経営の要点にもなる。
2019年2月11日月曜日
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