前号の続き。
話す力と聞く力のバランスについて。
「一切喋らせないでよい」と言っているのでは決してない。
発言の機会を、声の大小に関わらず、平等に与えられるのを当たり前にする。
35人いる場で自分が1分間話したかったら、34分間は聞く力が必要ということを教える。
それが、「私」と「公」の場の違いである。
注意点を一つ付け加える。
そもそも、誰がどういう基準で〇×をつけるかという問題も含まれる。
つまり、教える側が誤認している場合、×を〇としてしまう可能性も含まれる。
誤ったことを教え続けている可能性があるということである。
つまり、私の論が間違っているとしたら、教わる子どもたちも×になるということである。
実際、話す方が大切という論調が強いのであれば、私は間違っているという声が世間では強いことになる。
そういうことも自覚した上で、やはり「聞く力」を優先する方が断然大切だと自信をもって言う。
これは、現場感覚なのである。
一般に、低学年で話が聞けないのは、「自分らしさ」や「個性」ではない。
ほとんどの場合、「自然」なことであり、単に教育の欠如である。
特別支援が必要な子どももいるが、その子だけが聞けないという状況と、ほとんどの子どもが聞いていないという状況は全く異なる。
過去に一度でも学級崩壊やそれに近い状況を目撃している人には、わかる感覚である。
(なお、高学年以降では全てに無関心になって誰も発言しなくなるというタイプの学級崩壊もある。
しかし、これは話す・聞くとはまた別の原因である。
この場合の原因は、相互の信頼感の欠如による絶望感等が考えられる。
話す力の欠如の問題ではない。)
長くなったが、要はほめる、認めるという行為の対象となるものの「妥当性」が問題である。
本当にそれをほめて認めていいのか。
教師の都合のいいように操作したいだけではないのか。
よくよく考えて用いる必要がある。
2018年11月6日火曜日
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