本当に平等な教育のための知識の重要性について。
一人ずつがそれぞれに成長する機会を与えるのが、教育における平等である。
まずここを前提とする。
つまり、全員に同じ手法で、同じことをさせ、同じ位置のゴールを設定するのが平等ではない。
今いるスタートラインの位置からして、そもそも違うのである。
ここを特に意識した方がいいのは、特別な支援が必要な子どもたちである。
例えば、授業中に、席についている。
「当たり前」である。
しかし、一部の「皮膚の下で虫がうごめいているような感覚」をもつ子どもにとっては、当たり前ではない。
ものすごい苦行である。
だから、知識がある人なら、普通に動き回らせる。
授業に不都合があるなら、動ける範囲を決めたり、逃げ場所を作ったり、一定のルールを設けるなど「動く前提」の対策をとる。
これは、知識がないと思い付かない。
知識がないと、ただのわがまま、我慢のできない子にしか見えない。
「きちんと座りなさい」の一点張りになる。
それでうまくいったという事例を聞いたことがない。
(恐怖感で動けなくなっているだけというのはあり得る。
この場合、担任が交代する次年度に大爆発である。)
特別支援教育だけでなくて、あらゆることに共通である。
知識がないと、適切な方法はとれない。
国語で、この子どもはなぜ教科書を読めないのか。
あるいは、「たかが」音読するだけの宿題を「さぼり続けて」くるのか。
算数で、なぜこの子どもは計算ができないのか。
あるいは、「たかが」ドリル1ページをやってこれないのはなぜなのか。
体育で、この子どもはなぜまともに縄跳びを跳ぶことができないのか。
あるいは、転びまくる、やたらに頭をぶつけてしまうのはなぜなのか。
どれもこれも、知識があれば見えてくるものがある。
「ディスレクシア」「特異的算数能力障害」「空間認識能力」
これらの知識があるかどうかである。
ないと、ただの「さぼり」「不注意」に見える。
先日のセミナーで、参加者のお一人が「センスとは、知識」ということを言っていた。
(さすが、厳しい社会を生き抜いている企業の方である。センスが違う。)
まさしくその通り。
センスは英語のsense。
Weblio辞書によると、その意味は
感覚(機能)、(漠然とした)感じ、気持ち、感じ、意識、
(美・方向などに対する本能的な)センス、勘、判断能力、
(知的・道徳的な)感覚、観念. 音節、
とある。
「意識」も含まれている。
つまり、知識がないと、意識できない。
知識があるから、知識がないと気にならないことが引っかかる=センスがある、ということになる。
やはり、教師にとっては、勉強が命である。
現場で一生懸命やる、というのは、前提。
誰でもやる。
問題は、その現場に立つ以前の動きである。
センスとは、知識。
勉強して、見える景色を広げたい。
2018年11月10日土曜日
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