2019年5月31日金曜日

昭和の「べき・ねば」を捨てる

学校には「べき・ねば」が多い、ということについては、これまでも再三述べてきた。
考え方が硬直してベキベキだったり、しつこくてネバネバしている類のものである。

この「べきねば」が、あらゆる苦しみ・問題の根源になっている可能性がある。

例えば、子どもが席について座っていられない「問題」。
座っているべきという前提が、座らせねばならない、座っていないのはいけないという「問題」を生む。
自らわざわざ問題をこしらえ、生み出して、それに悩み苦しんでいるといえる。
まあ、言うなれば「ドM」である。

そもそも、子どもは黙ってじっと座っている生き物ではない。
嫌でも黙って座っていられる子どもが存在するのは、そうしないと「不利益を被る」と学習しているからである。
(ある意味、それも主体的な選択である。服従を選択する、というのはあり得る。自己防衛手段である。)

座る「べき・ねば」を捨てて、立ち歩いて動けるタイプの学習スタイルにすればいい話である。
近年は、社会人のセミナー等でもそのスタイルが普通にある。

例えば、食事中に立ち歩くのはマナー違反である。
好きなものばかりを選んで食べるのも、よろしくない。

しかし、立食パーティーというのもある。
立ち歩いても、好きなものだけ食べても、全く問題ない。
なぜなら、立食パーティーは、多くは「交流」が主たるねらいだからである。

学校は、何がねらいなのか。
どの国でも、その国にとってその時代に必要な方針に沿って学校教育がなされる。

例えば、戦時中。
規律正しく動き、上の命令に逆らわず、忠実に従える国民が大量に必要である。
戦闘においては、そこに命がかかっているからである。
列からはみ出すのも、行進が揃わないのも、返事が小さいのも、号令に従わないのも、全部×である。
特にこの時代において、運動会は富国強兵の一環の大切な行事である。

例えば、高度経済成長期以降。
「24時間働けますか。」に「もちろん、喜んで!」が大切な時代である。
作れば作るほど、売れた時代である。
決められた作業を正確に行い、働き続けられる人材が必要である。
そういう教育が必要であり、学校のテストでも決められた正解を素早く答える能力を求める。

今、令和という新たな時代を迎えようとしている。
この時代に必要な教育とは何なのか。
少なくとも、戦時中や戦後の高度経済成長期と同じではないはずである。

昭和、平成までの「べきねば」を捨てられるか。
いや、もっというと、学校教育においては、平成になっても昭和のままだったという部分がかなりある。
元号が変わるこの年度は、多くの人にとって変革へのチャレンジの一年になるはずである。

2019年5月29日水曜日

守りに入ったら終わり

今年度最初のメルマガで書いた、大切だと思うことを一つ。

学級経営に限らずだが、実感していることがある。
それは、
「守りに入ったら、終わり。」
ということ。

昨年度、ぼちぼちやれたとする。
まあまあの成果が出たとする。
そうすると、やり方を変えにくくなる。
変えなければ危険がないからである。
そうすると、年を経るごとに、ずるずる後退する。

子どもは時代のスピードで成長するのに、同じでいい訳がない。
もう平成から令和へ時代が変わったというのに、下手すると、昭和のままである。
恐ろしいほどの「後退」である。

昨年度、失敗したと思うとする。
そうすると、攻めるのが怖くなる。
やり方を変えないとまた同じ轍を踏むのだが、怖くて変えられない。
代わりに、規制を厳しくしたり、言うべきことを言わずに黙ったりするようになる。
こうすると、また同じ失敗をする。
やはり、「後退」である。

自分を守りに入ったら、もうダメなのである。
特に学級経営では、子どもにおもねったら終わりである。
管理職や保護者に及び腰になっても、ダメ。

子どもにどうなって欲しいか。
主体的・対話的で、深い学びをして欲しいはずである。
これはかなり「攻め」の学び姿勢である。

だったら、こちらもそうでないといけない。
自分は及び腰で全く動かず、安全地帯から命令を出すような人の言うことを聞きたい訳がない。

どんな人が相手なら、人は掛け値なしに動くのか。
歴史上の教育者に学ぶのがいい。

歴史上の教育者といえば、吉田松陰。
命令をしない。
差別もしない。
教えないで教える。
言うべきことは言う。
優しくて厳しい。
ここに学んだ志士たちは、日本を動かす人物になっていった。
自身は死罪になっても、教育者としては、確実に「成功」である。

基本が「攻め」である。
攻めすぎて何度も捕まっているが、それも潔い。
「やむにやまれぬ大和魂」である。

自分の先生が攻めていると、教え子たちも真似したくなる。
多分、吉田松陰に教わっていたら、学ぶという行為も、主体以外に有りえなくなる。

「勉強は忍耐」とか「将来の受験のため」と心の奥底ででも思っているのなら、それは確実に子どもにも伝わる。
実につまらない学びである。
子どもが勉強嫌いになること必至である。

「嫌い」は、「怖い」とは違う。
子どもも大人も同じで、嫌悪感を抱くのは、人として尊敬できない、信用できない人物である。
「言ってることとやってることが違う」というのは、その点において致命的である。
いつも自分の立場の守りに入っている大人を見て、子どもの憧れや目標になれるはずがない。

今年度、何がしたいのか。
攻めの姿勢こそが我が身を助けることを肝に銘じて実践していきたい。

2019年5月27日月曜日

道徳の3階層

鍵山教師塾での学び。

道徳を、3つに分けて考える。

最下層は、法律。
次が、躾。
最上層は、求道。

これら全てを合わせて、人として生きる道、「道徳」である。

法律すら守れないという状態は、基本的な欲求が充足されていない状態である。
逆に法律を守れる人とは、幼少時に親や目上の人の愛をよく与えられ、受け取れた者だけだという。

よって、法律を破っている人間に対しては、「道徳論」で説いても無駄だという。
例えば、ひどい生活をしていて、盗んでまで食べ物を欲する子どもたちに、道徳心が欠けいる訳ではないのは自明である。
あるいは、愛情不足の子どもが暴力行為に及んでしまうのも、道徳心の問題ではない。
根本は愛の不足であり、ここを理解して与えるしかない。

だから、もし学校の「有名人」を担任することになったら、無条件に愛を与える以外に方法はない。
教えて何とかなるなんて思わないことである。
拙著『切り返しの技術』でも書いたように、100回裏切られる前提と覚悟が必須である。

躾とは、社会性そのものである。
中国の「礼」である。
これは「おしつけ」でよい。
こちらも説教は無駄。
そういうものだと身に付けさせるべきものである。

例えば、その文化における独自の作法なぞは、「おしつけ」以外に知る由もない。
説教ではなく、しっかりと教える。
反復させ、型にする。

ちなみに、躾のなされていない部分は、本人の「悩み」として表出するという。
躾をされていないと悩みが増える、不幸になるということである。
そう考えると、躾は教育において必須である。

最上級の「求道」とは、高みを目指して生きる「道」のこと。
これこそが本物の道徳、徳の道である。
「道」とは正解がなく、常に続くものを指す。
書道でも武道でも同じである。

これらは、自分で究めていくもので、正解もゴールもない世界である。
よって、「型」を越えた時点から教えることが不可能な領域である。
また、口にして教えた時点で、もうそれが入らなくなるというので、要注意である。

では、最上級の道徳である求道を、どうやって教えるのか。
これは、背中で示すしかない。
むしろ、本人が勝手に選んで、勝手に真似されるものである。
よって、教えること自体が不可能と考えてよい。
自分を鍛える「修養」以外に道はないということである。

「道徳を教える」ということへの違和感が、すっきりと溶けた。
なるほど、道理で教えらないはずである。
この考えに則れば、教科書のある道徳科の担保できるのは、「法律」と「躾」までである。

あくまで捉え方の一つではあるが、自分の中ですっきりしたので、シェアしてみた。

2019年5月25日土曜日

悲観的に最悪を想定して、最高の準備をし、楽観的に臨む

タイトルの言は、5年ほど前に東京教師塾というところで、塾頭の原田隆史先生に学んだ言葉。

「悲観的に最悪を想定して、最高の準備をし、楽観的に臨む」

これがどこか一つでも違うと、望まない結果になる。

例えば
「楽観的に最悪を想定しない」する。
そうすると「予想外の事態」が増える。
対応が遅れる。

天気予報もみないで「空が青いから大丈夫」と出かけたら後で大雨、というパターンである。
教師の場合だと、通知表のミスで大きな手間をとったり、家庭への連絡不備で連絡網を使用、というようなパターンである。
どれも注意深く事前チェックをしていれば、防げるミスである。

例えば
「最高の準備」をしないとする。
想定通り最悪が起きた時に、手が打てない。
「ほら、やっぱり起きた」と嘆くだけになる。

先の例だと、雨が降りそうだけど傘を持たないで出たら大雨、というパターンである。
教師の場合だと「やっぱり授業がうまくいかなかった」というパターンである。
(準備していないのだから、それはそうである。)
具体的に準備の行動を起こしていれば、防げるミスである。

例えば「悲観的に臨む」とする。
そうすると、見方がマイナスになり、固くなる。
最悪を想定して準備はよくしているので、失敗しまい、予定通りにいかせようと、「必死」になる。
楽しくないのである。

先の例だと、ばっちり準備はしているのに、常に雨が降ることを不安に思っている状態である。
教師の場合だと、授業研で常に「指導案通り」を目指して、脱線を恐れながら授業している状態である。
(この場合、本当は価値のあるかもしれない、子どものユニークな言動は黙殺される。)
最悪も想定して十分に準備もしたのだから、後は流れに身を任せて楽しむのが正解である。

経験が浅い状態ほど、「楽観的に臨む」の部分が難しい。
それでも何か想定外が起きる気がするからである。
それを潰すには、準備しかない。
「後は神頼みぐらいしかできない」という状態まで万全にしておく。

少し慣れてくると「悲観的に最悪を想定」が難しくなる。
これまでの経験値から、「これぐらいで大丈夫」と考えるようになるからである。
「一時停止」とかかれていても「いつも誰も来ないから」と突っ込むようなものである。
慣れてきた時がケガをする時である。

かなり経験を積んでくると「最高の準備」が難しくなる。
どれも何となくできてしまうからである。
「変化なし」「例年通り」という、一番恐ろしい慢性病にかかる。
どんなに年齢を重ねても、死ぬまで学び続ける人との違いである。

自分はどのフェーズにいるか、客観的に把握すること。
その上で最高の準備をして、変化を起こすこと。

昨年度と同じことは、極力しない。
この職業の場合、過去の成功パターンにしがみつくのが一番危険である。
なぜなら、毎年違う子どもを相手にする上に、子どもは成長スピードが大人とは桁違いだからである。

常に学び続けること。
これこそが、不安をなくす唯一無二の方法であると考える。

2019年5月23日木曜日

高学年担任に不安を覚えたら

ある会合で「どの学校も高学年を希望する人が少ない」という話になった。
現役の教諭から教務主任、教頭、校長、退職した方、委員会関連まで、あらゆる立場の人がいた。
全員違う地区、違う職場、違う年齢層である。
その人たちが口を揃えて言った話なので、そうなのかもしれない。

なぜ、高学年の担任希望者が少ないのか。
一言で表すと「大変だから」である。
何が。
学級づくりそのものがである。

低学年は、やたらと教師についてくる。
低学年の大変さは、基本的に「幼さ」に端を発するものであり、大人なら対応できる。
中学年もほぼ同様である。
しかし、高学年は違う。

高学年は、集団の関係性が出来上がっていることが多い。
前年度までに、集団内に強い上下関係ができてしまっている場合もある。
加えて、第二次性徴の平均的始まりの時期であり、猛烈な反抗期の入り口である。

私は、今でこそ低学年の担任だが、それまで高学年担任ばかりしてきた。
希望した訳ではないが、そうなってきた。
(基本、管理職に「お任せ」である。置かれた場所で枯れるかもしれない覚悟である。)

十数年に渡る高学年担任の経験から、困難の一定のパターンが見えてきた。

例えば、高学年女子の「言いつけ」や「相談」は、多くの場合いじめの種を含む。
「正義」の皮を被って、対立する女子に向けて発せられていることが多い。
予め見る目があればわかるが、ないと言いくるめられる。
対応の術を知っているかどうかに成否がかかっている。

また高学年担任の基本姿勢は「子どもの力の信頼」である。
あらゆることに、自力解決を促す。
手を離すのはもちろん、敢えて目も少し離す時期である。

こういったことは、どれも「経験知」である。
汎用性のあるものにすれば、世の中の役に立つと思い、次の本にした。

『お年頃の高学年に効く!こんな時とっさ!のうまい対応』
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-140623-3
https://www.amazon.co.jp/dp/4181406237

高学年担任に不安のある方、あるいは周りにそういう方がいるなら、ご一読してはどうか。

学年に関わる本は、共有するのもおすすめである。
1冊あれば、みんなで読めるし、共通理解もしやすい。

高学年担任は、対応がわかれば一番やりがいのある、面白い部分である。

2019年5月21日火曜日

8の字跳びが苦手な子どもへの指導をどうするか

前号の続き。
8の字跳びが苦手な子どもへの指導をどうするか。

当たり前だが、集団には跳ぶのが苦手な子どもが含まれる。
いや、苦手な子どもが生まれる、といった方が正しい。

なぜかというと、回数が上がるにつれて、それぞれのレベルで「ついていけない」という事態が生じるからである。
最初は苦手だと思っていた子どもが、練習を重ねるにしたがって克服して上手くなることもある。
一方で、最初の頃の、ゆっくり入って、止まって、ジャンプして、の時は出来たのに、レベルアップしてくるとできなくなる子どももいる。
さらにもう一方で、終始一貫、得意という子どもも、苦手という子どももいる。

これら能力と育ちが異なる個が集まってできた集団が学ぶ。
この点は、算数等の普段の学習と同じである。

何が必要か。
助け合いである。
サポート、励まし、課題解決である。

ただ算数の場合は、最終的には個人の問題で終わる。
集団跳びでは、それが集団の記録に反映する。
だから、どうしても気楽にはできないという短所と、いつも以上に必然的に努力を促すという長所がある。

具体的には、毎回の短いミーティングが肝になる。
跳んでみて、円座して話し合って、修正。
この繰り返しである。

基本はクラス会議と同じである。
全員が円になって平等な立場で、話し合う。
この時大切なのは、他人の批判をしないこと。

「〇〇さん、ここを直して」ではなく、
「ここが自分は困っている」
「ここをこうするために、私にこれができる」ということを互いに出し合う。

具体的な例を出すと、「縄にタイミングよく入れない」という困り感のある仲間がいたとする。
それに対して「〇〇さん、がんばって入って!」ではなく、
「縄に入るタイミングでみんなで声を出していきましょう。」
「私が後ろで、入るタイミングを教えます。」
「その時だけ縄の回し方を少しゆっくりにしてみます。」
といったことを発表する。

あくまで、自分のできることを伝える。
周りのために、自分のできることに全力を尽くす、という姿勢を学ぶ。
「他責」の姿勢を排して「自助努力」の姿勢にシフトしていくのがコツである。

担任が気合いを入れすぎていてはダメ。
一方で、放置していてもダメ。
話合いの方向修正が、担任の仕事になる。
それをしないと、うまくいかない時、話合いがどんどんネガティブに流れるからである。
あらゆるリーダーの仕事は、指針を示すことである。

昨年度の私の一年生の学級は、後日談がある。

やはり、大会当日でも、まだ跳ぶのがなかなかうまくならない子どもたちもいた。
そこまでバシバシ鍛えようとした訳ではないのだから、当たり前である。
今できることを全力でがんばればよいと、子どもたちも考えて臨んだ。

さて、大会が終わった。
その日の昼休みに「先生、8の字跳びやろう」と誘われた。
中に、かなり苦手だけど、がんばっていた子どももいる。
そうしたら、上手に入って跳べた。
次も、跳べた。
みんなで「やった!!」と大喜びである。
本人も、ニコニコである。

この子どもと、周りの子どもの性質がいいから、といえばそれまでかもしれない。
しかし、こういったことは、集団で跳んだ回数そのものよりも、よっぽど大切である。

ドラマは、困難やうまくいかないことの中にあり。
子どもの自助努力と周りの温かいサポートで、高い壁を乗り越える体験ができれば、大成功である。

2019年5月19日日曜日

8の字跳び等の集団指導に要注意

昨年度、1年生の長縄大会があった。
3分間の8の字跳びである。

さて、こういうだけで、よく聞かれる。
「何回跳べたのですか?」

まあ、ネットで「8の字跳び10の基本技術」とか書いて発表しているぐらいだから、その質問が来るのも当然である。

はっきり言う。
どの人のどの学級の実践であっても、跳んだ回数自体は、どうでもいい。
大切なのは、その回数に至るまでの「文脈」である。

冷静に考えて、大人になるにあたり、8の字跳びをすることはない。
やる機会もきっとないし、必要もない。

では、なぜやるのか。

子ども集団が、それを通して成長するからである。
その中で、個が成長するからである。
子どもの育ちがすべてである。

さて、この集団縄跳び系は、かなり注意して指導しないと、この点で相当なマイナスになる。
子どもの集団に対する所属感の減退や、学校教育への不信感を強める可能性が出る。
こうなると、本来のねらいと効果が真逆である。

なぜなのか。
特に幼いほど、他人が「できない」ことに対して責める姿勢が出るからである。
逆に高学年は、「できない」ことに対して、必要以上の自責の念が出るからである。

ここに配慮していかないと、相当失敗する。
ものすごい記録が出て大会でも一位だけど、大失敗という事態も考えられる。
終わってから「これでもうやらなくていいんだ!」という声が出るようでは、まあ失敗と考えてよい。
あるいは、自分が成功したから周りを見下すようでは、最悪の大失敗である。

これは、あらゆる集団指導や部活動、勉強等にもいえる、共通指標である。
成功した自分は偉いんだとか、大学に入ったらもう勉強しなくていいなどと、思わせるようでは、教育の大失敗の極みである。

この辺りの配慮なくして取り組むと、実はマイナスの教育になっている可能性がある。

では、跳ぶのが苦手な子どもに対してはどうするのか。
長くなったので、次号で紹介する。
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