2020年9月14日月曜日

学級集団づくりの4段階

 8月に、ある市の若手の先生方を対象に、オンラインでの研修講師をつとめさせていただいた時にした話。

昨年度も特別活動部会で学級づくりをテーマにお話をさせていただいていた。

夏休み明けで忙しいところへの貴重な時間を使っての研修である。


こういう場で話す時に特に気を付けるのは、「伝わる」の一点である。

場によって、話す内容も話し方も変えないといけない。


学級集団には段階がある。

教師の指導性も子どもの自由度も低い「学級開き」の第1段階。

教師の指導性が高く、子どもの自由度は低い「一斉指導」の第2段階。

教師の指導性も子どもの自由度も高い「ペア・グループ活動」の第3段階。

教師の指導性は低く子どもの自由度が高い「自治的活動」の第4段階。


この段階に応じて指導の仕方を変えていく必要がある。

当たり前だが、初対面の人たちと話す時と、何十年も付き合いのある人たちと話す時が、同じような仕方であるはずがない。

そういうことである。


ちなみにこの理論は、私の考えたものではなく、上越教育大学大学院の赤坂真二先生のものである。

次の本の2章に詳しい。

『スペシャリスト直伝! 学級を最高のチームにする極意』 赤坂真二著 明治図書


今回は、市内全ての学校が対象ということで、ほとんどが初対面であり、第一段階の「学級開き」と同じである。

ただ、学級のように関係性や信頼性の構築に力を注いでいたら時間が終了するので、そこにはあまり時間を割けない。

「伝わる」を念頭に、「一斉指導」の第2段階を中心に据えて、時々「グループ活動」といった体になる。


この原則は、あらゆることに適用できる。


例えば、数式というのは、数学者や物理学者にとって世界を表現するための、最も正確にして美しい表現手段である。

しかしながら、美しく完璧な数式で表現されても、それを知らない人にとっては、さっぱりわからないただの記号の羅列である。

だから第一段階の学級開きよろしく、お互いのことをさっぱりわからないという前提から始めないとならない。


一方で、専門家同士が話す時、それらのまどろっこしい説明はいらない。

互いに数式を書き合って議論ができる。

いうなれば第4段階であり、指導者が不要に近い状態である。


当然、専門家に育つまでは、途中のしっかり教えてもらう第2段階や、師を交えながら仲間同士で議論する第3段階もある。

何かについて育成しようという時は、この原則に従うのが、基本である。


一方で、これに従わない方がいいものもある。

一つは、先達がいない分野、あるいは先達が誤った方向に進んでしまっている分野である。

教えてくれる人が存在しない分野は、独学で切り開くしかない。

あるいは、先達が誤っている場合、そこに従うのみでは、正解に辿り着けない。


「地球を中心に太陽が回っている」という前提では、現在の地動説には辿り着けない。

ニュートン力学の前提に立った上では、量子論には辿り着かない。

どれが正しいのかわからない分野では、先達のやり方を愚直に続けても真理に辿り着けないということである。


話を元に戻す。


今回、第1段階からなのだから、わかる話にしなければならなかった。

学級づくりについての第1段階から第2段階の話をしつつ、第3、第4段階への道筋を示せという依頼である。

無理は承知で、あくまで概論を示した。


ちなみに、第4段階の自治的活動については、実際にやっている人でないと、まったく理解できない。

ただ自由に放置して遊ばせているようにしか見えないからである。


達人的な段階の教師の授業を見たことがある人にはわかると思うが、そのレベルだと、教師が授業中にほとんど出てこない。

だから、見ていても何がこのものすごい子どもたちの活動につながっているのか、さっぱりわからない。

真似して自分もやってみると、学級が滅茶苦茶になる。

「あんなやり方はいい加減だ。だめだ。」となる。


そうではない。

集団の段階が違うのである。

第4段階の集団では、子ども自身が育っているため、どんな課題を投げても、自分たちの「もの」にしてしまう。

一方で、第2段階にとどまる集団では、いきなり課題を投げられても、自分たちだけではどうしていいかわからない。

その「育ち」の違いである。


ちなみに「うちはペアトークをよくしているから第3段階」などと思っていると、大やけどする。

集団の育ちとは、そういう方法論や形式を言っているのではない。

問題は子どもが育っているかどうかだけであり、見た目は「ペアトーク」で同じかもしれないが、レベルによって内実が全く異なる。

「間をつなぐためにペアトーク」「ただ楽しいからペアトーク」というものがかなり多い。

そうではなく「隣と議論せずにはおれない」「話さないと始まらない」というやむにやまれぬ思いで始まるペアトークでありたい。


どうするとそう育つかだが、方法論の話をすると、それをただやるだけではだめ。

一方、その時やるだけではだめ。

「意図をもって」「いつもやる」というのが、単なる方法論を血肉化するための常套手段である。


もし「ペアトーク」を使いこなせるようにしたいなら、いつでもそれを推奨する。

「国語だけ」「学活だけ」というような程度のものでは、形式にとどまる。

休み時間や掃除の時間はもちろん、必要ならば授業中であっても隣と話しても構わないというようにする。


それは、「第2段階」にある教師と子ども集団にとっては、不都合の多い自由なルールでもある。

それでも、少しずつ取り入れながら、慣らしていく必要がある。

「黙りなさい」から「喋りなさい」といういきなりの方法変更は、無理と混乱が生じるからである。


まずは「一斉指導」ができる段階を踏むこと。

次に「ペア・グループ活動」に慣らす段階に進むこと。

そして、自治的活動を目指す。


今回は、こういう構成で話をした。

大抵、質問に詳しく答えすぎて時間が足りなくなり、今回も御多分にもれなかった。


オンラインで話せるというのは、現代の一つの恩恵である。

これから広まっていくと思うが、そのための方法論も自分なりに構築していきたい。

2020年9月12日土曜日

壊してはいけません

 平時の所感を記す。


よく、ヒーローものなどで、戦いの最中に建物が壊れる。

あるいは、悪者一人に対し、力を合わせて全員で総攻撃する。

または、悪者から逃げるために、街中をバイクや車で逆走してすっ飛ばしていくシーンがある。


幼心に「中のビルの人は大丈夫なのか」「そんなにみんなでよってたかって一人を攻撃していいのか」と思っていた。

大人になってからも変わらず、「今のシーンでは、主人公は助かったけど、事故が起きて誰か死んだのでないか」とか思っていた。

またファンタジーを見ても「さっさと最終魔法使えばいいのに」「別に空飛べばいいがな」と思っていた。


こういうことを他人に話すと「お話だからいい」「メルヘンなんだからいい」といって、大変嫌がられた。

それ以来、思っても迂闊なことは口外しないようにしている。


しかし、私は幼い頃から、真剣に、これは結構問題なのではないかと思っている。

「正義だからいい」とか「素敵だからいい」とかの価値観は、見るべきものを見えなくする。

どんな理由にせよ、人の大事なものを壊してはいけないと思っている。


突き詰めると、地上戦で一人ずつ撃つよりも、原爆で大量殺人の方が罪や痛みを感じない、というのは、ここと関連すると思う。

個々の死を見えにくくしているだけで、「正義の原爆」も「聖戦によるテロ」もありえない。

どんな理由をつけたにせよ、殺人であり、人が現実に死んでいるのである。


「正義」や「正しさ」の概念は、特にこの目を曇らせる。

以前に紹介したタモリさんの「loveがなければpeace」の言葉の通りである。

https://www.mag2.com/p/news/260236


「私」の大切な「我が子」のためなら、他の子も周りのすべてを犠牲にしても構わない。

少し拡張するとこれが「会社」という人もいる。

自社の利益のためなら、犠牲も構わない。

どんどん大きくなると、国になる。

「我が国のため」なら、地球の一部さえ破壊しても構わない。


「私」を完全に捨て去ることができない以上、正義は、常に個人内の独りよがりである。

あらゆる宗教の過酷な修行が「滅私」を目指すことも、これと関連しているように思う。

「私」と渇望する肉体とを切り離したいのである。


話を戻す。


アニメ、漫画、スポーツ選手や芸能人、アイドル等、人気のあるものの人々へ与える影響は絶大である。

ただ、これらから発せられる情報が、どんな意図からなのかを読む必要がある。

これは、現代に必須のメディアリテラシーの一つである。


残念ながら、多くは利益ねらいの発信である。

人気を博すことがそのまま経済的な効果につながる。

心理学でいう「ハロー効果」で、その人気者に発信させれば、それがあたかも素晴らしいもののように思える。


だから、商品のCMに人気女優や俳優を使うのは常套手段である。

(そしてその商品の価格の内訳の実態は、原材料費や開発費ではなく、CM等の広告料がほとんどである。

よって莫大な広告料のかかる「今をときめく人気芸能人」やアニメキャラ等を宣伝に使っている商品は、すぐに飛びつかず、よくよくもの自体を見て検討した方がよい。)


特に、人気漫画が幼い子どもたちに与える影響力は絶大である。

正義とは何かも刷り込まれる。

何が「かっこいい」「素敵」なのかも、刷り込まれる。

よくよく見てみると、それにはかなりの理不尽がまかり通っているのだが、子どもが気付くはずはない。

ドラマチックに仕立て上げれば、それらはすべて正義である。


自分が良いと思っているものが、本質的に良いかは、かなり怪しい。

刷り込まれた偏った価値観というのは、なかなかに強力で、自分では気付けないからである。


本質に気付ける感性をもてるようにしたい。

2020年9月10日木曜日

だめな予想は実現する

 以前にも紹介した、次の本に関連して、終戦記念日あたりで書いた記事。


『昭和16年夏の敗戦』 猪瀬直樹著 中公文庫


この書名をみると、昭和16年夏に敗戦。

さらっと流すと、1945年の8月15日を思い浮かべるかもしれない。


しかし昭和16年というのは、西暦1941年のことである。

1941年の夏に「日本必敗」が正確に予想されたということである。

(ただし、原爆の存在は想定外だったようである。)


戦争を始めるまでもなく、この時点で、日本の敗北が決定していたという意味である。

そして実際にこの年、1941年12月8日、真珠湾攻撃が実行された。

その後の惨憺たる結果は、周知の通りである。


つまり、物事の結果というのは、正確な予想ができた時点で決まっている。

身に覚えがあると思うが、たとえデータに基づかなくても、悪い直感というのは、大抵ほぼ思った通りになる。


つまり「このままだと事態は良くならなそうだ」「悪いことになりそうだ」と感じることは、実際そうなるということである。

別にスピリチュアルな話ではない。

大抵の「想定外」は実は想定外ではなく、想定したがらなかった、わかっているのに目をそらしていただけということである。


なぜこうなるのか。


これを阻むものこそが、空気である。

この時の判断は、周りがどう考えているかに左右される。

そしてその周りも、周りをあてにしているので、決断ができない。

会議や話合いをしても右往左往するのは、これが根本的な原因である。

つまりは、責任者が不在なのである。


何度も書いているが、多くの会議の基本機能は承認である。

原案とは決定事項の異名である。

よって、かなりの部分が要らない。

決まらない会議は、原案が穴だらけで、提案者がだらしないからに他ならない。

(実際、私の提案のせいで長引いた会議も多くあるので、自責の念を込めてである。)


一方でだめな決定になってしまう会議は、責任者の側に確固たる信念と、伝えるための適切な手段が用意されていないためである。

それに伴って、出席者側も理解をしていない、だから意見を表明しないという状態になる。

よくわかっていない周囲の空気に翻弄され、本質的な部分が伝わっていないため、だめな結果がわかっているような決定になる。

だめだとわかっている決定事項を実行して、結局残念な結果になる。


学級経営の場合も学習指導でも、家庭教育でも、本質的には同じである。

何となくこれじゃだめだと思っていることをやっても、だめになるに決まっている。

あるいは、だめな結果が出ているのを、力技で押さえつけて蓋をして見えなくしているだけである。(そして、いつか爆発する。)


だめになることが、予想できているか。

できているなら、策を打って方向を変えない限り、遅かれ早かれ予想される結果が訪れる。


歴史の過ちから学べることは多い。

「歴史は繰り返す」という言葉があるが、改善しないで同じ過ちを繰り返してしまうのは、進歩のないだめな失敗である。

失敗を恐れずに挑戦し続けるために、この機会に改めて歴史を学んでおきたい。

2020年9月8日火曜日

空気の教育

 8月は、戦争に関する記事をいくつか書いた。

そこでメルマガ読者の方に勧められて、次の本を読んだ。


『昭和16年夏の敗戦』 猪瀬直樹著 中公文庫


元々は1983年の刊行の単行本なのだが、つい最近、文庫の新装版が出た次第である。

著者はご存知、元都知事でもある猪瀬直樹氏である。


極東裁判でも取り上げられた「総力戦研究所」という組織の全貌について書かれている。

そして研究所によって「日本必敗」を正確に予測していながら、なぜそれを止められなかったのか。

戦争の裏側について学ぶことができるのだが、それ以上に、今に通じる問題がここにあるという点においても、一読の価値ありの本である。

(今の日本では諸外国に対し「日本必敗」だろうと予測している人は、決して少なくないはずである。

しかし、それを自ら止めようとしていないのも現状ではないだろうか。)


最高の頭脳と判断力と道義心を備えた人間が集まっても、誤った判断になってしまうのはなぜなのか。

素晴らしい組織が、どのようにして「死んで」いくのか。

その仕組みがわかる本である。

誤った戦争に突っ込んでいってしまった経緯も、読むとよくわかる。


ちなみに「歴史」という単語を聞いただけで「苦手」「無理」「わからない」と毛嫌いする人もいる。

人によっては「数学」や「物理」「化学」なども同じ扱いかもしれない。

これらは「宗教」「政治」などにも通じていえる。


なぜ嫌いかというと、実は「わからない」からである。

わからないことは、怖いから嫌いと感じるだけなのである。


幽霊の正体見たり枯れ尾花


という有名な句があるが、わかれば怖くなくなり、嫌いでもなくなる。

「話してみたら意外といい人だった」というのも、全く同じ原理である。


「とにかく戦争反対。ダメなものはダメ」というだけで、自分には特に知識や考えがないと思うなら、読んでみることをおすすめする。

誰もがダメとわかっている戦争に、突っ込んでいく「空気」がわかる本である。

戦争になったのは誰か特定の人が悪かったからだという思い込みや刷り込みがある場合にも、ぜひ読んで欲しい本である。


要は、データや真実よりも、すべては「空気」次第ということなのである。

いや、データや真実すらも、納得という「空気」をつくるために利用、あるいは捏造される。

納得の「空気」にとって都合のいい「事実」に作り変えられる。


日本は、ずっと変わらず「空気」で物事を決定する社会なのである。

上層部の「空気」によって決定した事項は、覆せない。

決定した上層部も、だめとわかっていながら、そうせざるを得ない「空気」に屈服しているのである。


真珠湾攻撃を命令した司令官もパイロットも、原爆投下を命令した司令官も実際に爆弾を落としたパイロットも、みんな同じである。

それを計画した人も、飛行機を作った人も、部品を作った人も、そのための世話をした人も、全て同じである。

官吏(役人)の仕組みと同じで、個々に責任はなく、決定事項に対してそれぞれの役割分担をしているだけなのである。

何が本当に正義で何が本当の悪かなんて、関係なく動くしかないのである。

そこにお馴染みの勧善懲悪のストーリーが都合よく利用されているだけである。


戦争のことだけではない。

翻って、自分自身の生活についても考えてみる。


各々、今の自分の置かれている立場を考えてみる。

不満や大きな問題点はないか。

実は悪いと思っているのに、従って日々を漫然と過ごしている点はないか。

あるのに、自ら改善しようとしないのはなぜか。

それは、空気が関係しているからなのではないか。


「今更無理」

「上が」

「自分にはどうにもできない」

・・・


これらを支配しているのが、空気である。

空気は、つかみどころがなく、たたかいようがない。

人々に、無力感を植え付けるものである。


空気を、どう変えるかが問題となる。


縦割りの多重構造の組織ほど、空気を変えるのは難しい。

組織で長い間かけて醸成された空気を変えるというのは、容易ではない。

「難しい」→「仕方ない」→「諦める」→「慣れる」→「常識」となる。


組織に新しい風が必要になる所以である。

しかしその「風」もやがて変えられずに馴染んでしまい、他に常識を押し付ける側になる。


これを変えられるのは、「大衆」としてではない、責任をとれる個人である。

そうなると、その人は「常識」と「みんな」の安全地帯から出る必要がある。

そうなってくると、実行するのはごく少数の限られた人だけである。

大衆的心理として、自分がリスクを負うのが嫌だからである。


結論、空気を変えらるか否かは、責任をとれるかどうかにかかっている。

責任をとろうとしない人には、決して空気は変えられない。

だから、どんな規模にせよその組織のトップがどんな人物であるかは、決定的に重要である。


空気重視の文化。

これ自体を変えるということは、難しいといよりも、無理である。

それより、より良い空気を自ら作り出そうとする人を多く育てる方が現実的である。

それには、教育から変えるしかない。

そして国民の全員が必ず受けるのは、学校の義務教育だけである。


今の知識偏重の大学受験をゴールとした競争を煽る学校教育の仕組みからは、そのような教育は生まれない。

現場がどんなに努力しても、そもそものシステム不全を起こしているからである。

幼稚園でどんなに自由闊達な子どもを育成しても、学校に入った瞬間に机と椅子にきちんと座りましょう、という時点で、終わっている。

小学校の側も、特定の大量の内容を期限内に教えなくてはならないカリキュラムになっているから、根本的には変えられない。

中学、高校になれば点数重視になるのは尚更であるが、自他共に諦めがつく分、やりやすい面もあるかもしれない。


この小学校に入った途端に静かにきちんと座る、というのを実現するのも、実は空気である。

諸外国が必ずしもそうならないことを考えれば、理由は明白である。

(ただし、ここを勘違いして、学級の子どもがめちゃくちゃに暴れているのに対して無責任な担任では話にならない。

そもそも座らないで済む仕組みづくりとか、話を聞きたくなるようなことをするとか、そういう工夫をするのが担任の仕事である。)


こんな些末な話に始まり、子どもたちは空気を「読む」ことばかりに気を遣って、「作る」方に尽力しないのである。

なぜなら、周囲の大人たちのそうした姿を普段から見てきているからである。

大人の立ち振る舞いをコピーされているのである。


我々大人が、より良い空気を自ら作る姿を、真正面からはもちろん、背中でも見せていかなくてはならない。

空気に従って誤った行動に無思考で全員が突っ込んでしまうような事態は、避けねばならない。

今の混乱期こそ、その在り様が問われているように思える。


ここを根本から変えていくにはどうするか、学校教育の一端にいるものとして、今後も考えていきたい。

2020年9月6日日曜日

一人一台タブレットが問題解決につながるか

 次の記事に、共感した。


「オンライン授業が教育現場を救う」という文科省の幻想 前屋毅


もうこれを紹介して読んでもらうだけでもお腹いっぱいになる気がするが、自分の見解も入れる。


前屋氏が言っていることは、私の実感と完全に一致している。

私はオンライン、それも双方向授業を何度かやって、そこへの実感がある。


現実の対面で実現できていないことは、オンラインでは到底実現できない。

今時点で学級経営ができないのであれば、そこで本来実現されるはずの力は、オンラインでの学級経営でも実現できない。

当然のことである。


この原則は、あらゆることにいえる。


〇〇があれば、できるのに。


これを言ったら、100%できない。

いや、本当はやる気がない、あるいはやりたくないのだと考えて間違いない。


一番わかりやすいのが

「お金があったら○〇するのに」

である。


そんなことない。

大抵の場合、お金の問題は何とかなるのだが、そんなに実現したくない、あるいはする気がないのである。


一人一台タブレット端末がいき渡ったら、本人の興味に沿った個別学習が実現する。

学力が向上できる。

生き生きとした授業が実現する。


そんな訳ない。

一人一台タブレット端末に対応した新たな方法が必要になるだけである。

それよりも「簡単」な普通の対面授業ができないのであれば、結果は期待できない。


絶対に勘違いしてはならないのは、今何かがうまくいってないのは、何かの不足や環境のせいではない、という事実である。


自分がうまくいかない時、周りのせいにしたくなる時、いつも自分に問いかけることがある。


「それは、尊敬する○○さんがやっても、日本一の人がやっても、無理か、同じ結果か。」


できるに決まっている。

○○さんには、歴史上の人物を入れてもいい。

そうすると、既に実現しているだけに、言い訳はきかなくなる。


要は、自分次第なのである。

色々理由をつけて逃げたくなるが、自分次第なのである。

例えば四肢が不自由であっても、自分にできないことを成し遂げる人がいるという厳然たる事実から、逃げることはできない。


GIGAスクール構想自体は、大変結構であり、遅すぎたくらいである。

しかしながら、それだけでは現在の学校教育の抱える本質的な問題を解決するには至らない。

あくまで、この過程における必要な手段の一つでしかない。

新しく必要な環境整備である一方、今起きている学級経営上の諸問題を解決する手段ではない。


何が今の本質的な問題か。

これを、教育に携わる全ての人間がそれぞれに考え、答えをもつことが肝要である。

2020年9月4日金曜日

オープンな職場を目指して

実際に、校内研修に際して、校内に私が流したメール(校内SNS)の文章を、人名や文末等を一部改変してシェアする。

今日的な問題への提起となると考えたためである。


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1.「見取る」はわからない

授業研で「見取る」という用語がよく使われる。

広辞苑だと「見て知る」「みとめる」、明鏡だと「見てはっきりと知る」とある。


授業中、見ることはしている。

見て瞬時に判断している。

しかしそれが「見取る」なのかというと、「見てはっきりと知る」まではとてもいかない。

よって通常、授業中に「子どもを見取る」ができているということはありえない。


しかし学校で使われる「見取る」は、教育業界の造語、新語である。

教育で使われるときは、本来の意味とは違うようである。


こういう定義が曖昧な言葉は、注意して使わないと危険である。

よくわからないまま、学識の高いと思われる人や権力の強い人の意見に従って妄信してしまうからである。


よって「わからない」「できていない」と堂々と発言していた人の意見が、誠実で正しいのだといえる。

そうなると、定義しようという取り組みになるのだろうが、それが研修目的になっては目的と手段の主客転倒である。


授業で何を「見る」べきかなら、議論できる。

しかし「みとる」という未定義の新しい造語を用いた上に「何を」が入ると、混乱する。

授業研の際には、その辺りを意識しないと、授業後の議論が噛み合わないのである。



2.主体的・対話的で深いまなびは難しい

研修に参加している我々が主体的・対話的で深い学びができない以上、子どもに求めることは不可能である。


例えば夏の校内研修でも、研究主任にぶら下がって「何をやるのか」というような姿勢では、到底実現できない。

研修が「面白い」「つまらない」と評価するような受動的な態度ではなく、主体的に参加できる職員集団であるべき。


子どもへは「つまらないなら、もっと詰めて」と伝えている。

せっかくの貴重な時間を費やすのであれば、全員で中身を充実させていきたい。



3.自分を表現できる空間へ

少人数での話合いは、自分の思いを堂々とさらけ出し、白熱できる。


一方で、全体で行う話合いの場の空気はかたくなりがちである。(職員会議も同様。)

「答え合わせ」をしていて、間違えてはいけない、下手に手を挙げられないという空気。

あまりうまくいっていない教室でよくある雰囲気である。

指された人が「うわー」となり、周りの人がほっとするようであれば、うまくいってないと考えて間違いない。


差は何なのか。


安心感につきる。


何を言っても安全・安心。

人格を否定されたりしないし、意見の違いを面白がれる。


殺伐と「斬り合う」のではなく、建設的に意見の違いを伝え合い、面白がれる集団。

目指す子ども集団と同じである。



研修も、回数を重ねるごとに良いものになっていく。

クラス会議での話合いと同じである。


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以上である。

オンラインでチームズを使うようになってから、こういうことを校内でシェアし合う文化ができてきている。

新しいものも、チームづくりに有効に活用していきたい。

2020年9月2日水曜日

ロボット 使うか使われるか

前号の続き。


ご存知の方もいるかもしれないが、ロボット掃除機の最大の良さは、実はその吸引力や性能そのものではない。

「床に物を置かなくなる」という点である。

つまり、使っている人の生活習慣が変わる。


ロボットに任せるとなると、吸ってもらっては困るような、小さなものを床からどける必要がある。

さらに、きれいにしてもらうためには、床スペースを多くとる必要がある。

物がごちゃごちゃ置いてある空間には、ロボットが入れないからである。


自然、部屋を整理・整頓するようになる。

更に、床がきれいになると、上の空間もきれいにしたくなるから、不思議である。


ちなみに、これを自覚して使っているのであれば、それはロボットに使われていることにはならない。

ロボットを導入することで、自分の整理整頓習慣がつくようになることをねらっている。

運動習慣をつけようと、ジムに通うのと同じである。

お寺に修行に行くのも、同様の効果がある。

他律的自律であり、他力の活用である。


ロボットがこれから進化して、ドラえもんのように手足があって考えて物をどけてくれるようになれば、話は別である。

しかし、その果てしない利便性の追求は、最終的に人間の堕落につながる。


その辺りの危険性を、もう50年ほど前から指摘していた短い物語がある。

かの有名な『きまぐれロボット』である。


『きまぐれロボット』星新一 著 角川文庫


人間というのは、気を抜くと、限りなく怠けることができる。

ロボットに使われるようではいけないということである。


これから、オンライン環境の普及やデジタル教科書の導入等、ICT化が加速するはずである。

その時、学校現場で大切な心がまえは、ICTを活用するのであって、ICTに振り回されないことである。

主従関係が逆にならないことである。


例えばデジタル教科書が導入されることで、それをこちらがどう使うかである。

デジタル教科書になったからといって、急に子どもが意欲的になったり、こちらの授業の腕が上がったりする訳ではない。

この導入によって、従来に比べてこちらの何が自由になって、何が不都合になるか。

今までだったら問題にならなかった、床に散らばったものを片付ける必要があるかもしれないということである。


ロボットやICTの活用にあたっては、メリットとデメリットを自覚して活用したい。

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