2018年12月9日日曜日

万能に使える「必殺褒めワード」とは

まぐまぐニュースで取り上げられた記事。
https://www.mag2.com/p/news/375642
以下、これと同様の文。

褒め方をどうするか。
叱り方と同じかそれ以上に難しいことである。
なぜなら、ここを間違えると、とんでもない方向に子どもが育ってしまうからである。

(ちなみにアドラー心理学では、両方が否定されている。
褒めるも叱るもしない。
「認める」だけである。)

誰でもいつでも簡単、確実に+の成長効果が望める褒め方(認め方と言ってもいい)ワードがある。
私は、かなりこれを多用していることに気付いた。
むしろ、一年生相手の今など、ほとんどがこれである。
無意識に使っていたことに、はたと気付いたので、シェアしたくなった次第である。

何という言葉を思い浮かべるだろうか。
考えてから読み進めて欲しい。
なぜなら、がんばって考えてから得たものは、価値が高まり、記憶に残るからである。
あっさり手に入ったものは、価値が低いと脳がみなす傾向にある。
私自身が気付くのに膨大な時間がかかったのだから、せめて読者の貴方には1分ぐらいは使って欲しい。
ケータイメモでも何でもいいから、できれば最低一つは書き出して欲しい。





・・・・
もう書いただろうか?
いや、書いてなければ、読み進めていないはずである。
ただ知ることではなく、学習効果を高めることが大切なのである。
がんばって書いて欲しい。





・・・
書いただろうか?
書いていないはずがない。
がんばって書いたはずである。
そう信じる。

もう引っ張りすぎたからこの辺りで。
ずばり、その必殺褒めワードは

「がんばったね」

これである。
拍子抜けしたかもしれないが、これである。

きっと、貴方はこれを読むまでに、たくさん考えて書いたはずである。
そんな貴方には、心から
「がんばったね」
と伝えたい。

「がんばる」は「頑張る」(=頑なに張る)と書く故に、否定的に捉えられることもある。
微妙な「活用」が大切なのである。(ただし中高生校時代に覚えた何行何段活用とかは、さっぱり忘れた。)
言葉は、一文字の違いでも大きく意味が変わる。
相手が嬉しくないことが多い活用形は
「頑張れ」「頑張って」
である。
単なる努力不足の場合、言った方がいいこともあるのだが、精一杯やっている場合には、結構しんどい言葉である。
(ちなみに、鬱病の人への禁句ワードでもある。)
この言い方には「もっと」という叱咤と否定の思いが込められている。

これに対し
「がんばったね」
は、相手の努力を認め、たたえる言葉である。
褒めると認めるの両方の性質をもつ言葉である。

これは、かなり汎用性がある。
多くの場合で「がんばったね」は使える。

例えば、難解な試験に合格した際や、テストで100点をとった際。
単に「すごいね」と褒めれば、能力の自信がつくかもしれないが、「私は他人よりすごい」という尊大な心も育つ可能性がある。
これが繰り返されると、他人を見下すようになるかもしれない。
あるいは、その肩書きやランクにある人間、結果がすごいと思うようになるかもしれない。

「がんばったね」と褒めれば、その人自身の努力を認めていることになる。
気力がある場合「次もがんばろう」と更に成長が望める。
全力を尽くした場合「もっとがんばれ」と言っている訳ではないので、他者との競争によるエンドレスの苦しみから抜け出せる。
結果がどうあれ、相手の現在そのもの、努力そのものを認められるのである。

もっと身近で日常的な例だと「苦手な野菜を食べられたよ」というようなことを言ってきた場合。
「がんばったね」
でばっちりである。
つい
「えらいね」
と言ってしまいたくなるが、野菜を食べること自体は全然偉い行為ではないのである。
むしろ偉いのは、それを作ってくれた人々や自然の方である。
(他人のためになる何かを成し遂げた時に「偉い」は使われるべき言葉である。
使い方要注意ワードである。)

「がんばる」が否定されがちな傾向がある。
楽々、ゆるゆるいきましょうという気風。
頑張りすぎてストレスフルな社会に生きている現代人には、必要な考え方でもある。
しかし、子どもや若者は、やっぱり「がんばる」ことで成長する。
(そしてがんばれる人は、何歳でも若者である。)

「のびのびがんばる」ことだってできる。
楽しい努力というのは存在する。
苦しいが楽しいということも存在する。
今流行りのジム通いや市民マラソンランナーなど、その最たる例である。

「がんばったね」は、汎用性の高い、万能の必殺ほめ言葉である。

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