2018年6月15日金曜日

「質問できる」はいいことか

「叱る」とはどういうことか、「信じる」とはどういうことか。
こういったことについて、ここ数回書いてきた。

言葉の意味というのは、よくよく考えて用いなければならない。
安易に使うと、誤解を生みやすい。

何度も書いたが「叱る」と「褒める」というそれぞれの言葉自体に善悪はない。
誰がどの文脈で用いるかが大切なのである。

誤解されがちなものの一つに「質問」がある。
「質問するのはいいことだ」という風潮がある。
しかし、実際には、やたらな質問をするのは、よくない場合も結構多い。

体育主任をする若い方などからよく聞く話だが、運動会練習期間などで
「〇〇はどうするんでしたっけ?」
とやたらにきいてくる人がいるという。
「提案文書よく読んで」と言い返したくなるだろうが、何かと協力してもらう手前、言えない。
質問者側には、「主担当者なんだから完璧に把握しているはず」という前提がある。
それはその通りなのだが、異動したての時などで、見えていないことも多いと、何かと大変である。

本当は、質問する前に自分で調べて確認すべきことである。
自分の頭で考える方が先である。
その上で、確認の意味も兼ねて
「〇〇は△△ということでよろしいですね?」
と尋ねるべきところである。

類似したことは、教頭や教務主任等、忙しい人に対してこそやってしまいがちなので要注意である。
基本的に何でも把握しているので、つい頼りがちになるが、忙しい人にはちょっと調べればわかる無駄な質問をすべきではない。

これは、子どもの指導にもいえる。
「質問があります」とたずねる能力自体は、コミュニケーション能力としてはいい。
しかし、本来は、たずねないでも自分でわかる方がよりいいのである。
「聞いてない」「読んでない」「考えていない」という「ないない」だらけの質問は、良くないということを伝える。

低学年だから聞けなくても仕方無い、という考えもある。
しかし、実際は、幼稚園児でもきちんと話を聞けるのである。
そこを甘やかす必要はない。
(幼稚園や保育園の先生方は、一年生の小学校におけるあらゆる甘やかされっぷりに、ため息をついていることが結構多い。
 卒園させた側からすれば、手塩にかけて鍛え上げた能力のある子どもたちなのである。
 小さくて見た目がかわいいからといって、なめてはいけない。)

このあたり、低学年でしつけておかないと、高学年に「聞く力」が足りないまま育つ可能性がある。
高学年や思春期の指導の困難さは「きかない」「聞けない」ことに多く起因する。
学力の根本は聞く力なのである。
低学年で緩くしたことが、結局、「低学力&話を聞かない」ということにつながる。
学力面も情緒面も育たないとなれば、子どもが不幸である。
(体育でもいえる。幼児期~中学年までのゴールデンエイジには運動神経系を鍛えておかないと、後では取り返しがつかない。)

「クラス会議」等の「話し合い」をする場では、ここが顕著に出る。
35人の学級なら、平均して「話す時間:聞く時間=1:34」である。
つまり、その時間の97%ぐらいは、聞いている状況である。
聞く力の方をはるかに多く使う。
その上で、短い時間で効果的に話して伝える力が要求される訳である。
つまり、「話し合い」とはいうが、実は「聞き合い」という方が適切なぐらいである。

また、ここは大切なポイントだが、本人の努力の問題とは別に、聞けない子どもも存在し得る。
ここに対しては、特別な配慮がいる。

肢体不自由で車椅子に乗っている子どもに、みんなと同じように走れと無茶を言う人はいない。
しかし、色盲の子どもに色を見分けろという無茶を言っている可能性はある。

何が違うかというと、外から見てわかるかどうかの差である。
視覚・聴覚など、脳の内部の情報処理の困難については、特別な知識がある人には見えるのだが、そうでないと見えない。
「気になる子」は、対応を間違えると、二次障害を引き起こす。
単純に見てわからない困難さは、指導者側が配慮するしかない。
そういう可能性も常に頭の隅におきつつ、指導することが肝要である。

話が広がったが、「質問できる」がいいかどうかは、単純に言えないという話である。
どんな言葉や事柄も、それ自体がいいか悪いかでなく、文脈で考えるようにしたい。

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