大学の危機管理に関する授業中「善意には責任が伴う」という言葉に出会った。
学校の、様々な「特別対応」。
昔はなかったものが、かなりある。
今は、「当然」のこととして、様々な新たな業務が、日常的に行わている。
学校として、できれば「より良い」もの、あるいは、みんなと「同じ」状況を提供したい。
そんな思いがある。
この流れの根幹にあるのは、子どもへの善意である。
しかしながら、善意には責任が伴う。
特に危険を伴うあらゆることを特別対応として行う場合、徹底する必要が出る。
この「徹底」というのは、いうほど簡単なことではない。
普段の教育の世界における「失敗してもいい」という価値観が通用しない場面がある。
人命がかかっている場面である。
たった一つのミスで完全にアウト、という可能性のある場面である。
まさに「危機管理」である。
これが毎日の対応であれば、日々危ない橋を渡るような緊張感をもつ必要が出る。
例えば、登下校時の交通事故や不審者への危機管理である。
例えば、重いアレルギーをもつ児童への危機管理である。
例えば、虐待が疑われる児童への危機管理である。
「忙しい」という状況は、ここに致命的なミスをもたらしかねない。
ばたばたしていると、危機を見過ごす。
「うっかり」では済まされない恐ろしさがある。
しかし、学級担任が「忙しくない」という状況も考えにくい。
常に危機管理に直面している状況である。
そういう覚悟をもって、3つの「マネジメント」が必要であるという。
1リスクマネジメント→未然防止
2クライシスマネジメント→事故対応
3ナレッジマネジメント→知の共有化
の3つである
書き出してみると、学級経営そのものに相通じるものがある。
事故が起きてからのクライシスマネジメントというのは、結局応急処置でしかない。
そこのナレッジマネジメントからのリスクマネジメントという流れの、根本的な改善が望まれる。
過去何度も書いている「失敗学」の大切さである。
重大な失敗、事故ほど、起きる前によく知っておく必要がある。
話を戻すと、それらの対応には責任が伴う。
以前はなかったものであっても、やるとなったら責任が伴う。
以前紹介した「恩恵は権利に変わる」という話とも関係する。
一度善意で何かをやると決めたからには、最後まで責任をもつ覚悟が必要である。
何でもかんでも、個人の「善意」で対応しようとすると、それ自体が大きな危機を招くかもしれない。
「善意」も一人で行うより、チームマネジメントが必要である。
2019年8月10日土曜日
2019年8月9日金曜日
教育は価値づけの連続
何でもそうだが、人を作為的に操るというのは卑しい。
心理学を学ぶのは、人を操るためではなく、自分が操られないためである。
力で支配しようとする人などは、心理学で分析するとよくわかる。
力とは、物理的なものと心理的なものが合わさってできている。
DVなどは、物理的な攻撃に加え、心理的にも罪悪感を植え付ける行為である。
暴力を振るわれる側にも落ち度がある、暴力を振るわせているあなたが悪いという、無茶苦茶な論理を通す。
「そうかも」と思わせて支配するのが上手いのである。
マイナスの力による支配というのもある。
涙や落ち込んだ態度で、相手に罪悪感を植え付ける方法である。
「かわいそう」「これを助けないあなたは人でなし」というような心理にさせるのが上手い。
いわゆる「泣き落とし」である。
これもよろしくない。
勝手に「善行」「サービス」を施して、見返りを要求する手法もある。
(身近なところだと、試食や無料サンプルである。)
サービスを受けると、返さないとまずいという返報の法則が働く。
徒然と羅列したが、こういうのはたくさんある。
他人には使わないが、使われて操作されないように心がけてはいる。
これをいつも教育に当てはめて考えている。
教育は、心理学でいう「価値づけ」行為の連続なのである。
例えば以前「100点を褒めない」ということを書いた。
(プレジデントオンライン記事 「100点答案」を褒めると勉強嫌いになる)
https://president.jp/articles/-/22234
100点というのは、自分の力がついた結果なのである。
「それはよかったね」という感じである。
それ以上でもそれ以下でもない。
なぜか。
まだ個人の力で終わっているからである。
それは、何ら他に貢献していないからである。
100点がとれなくても、勉強ができなくて困っている仲間を助けている子どもがいる。
これは「君はすごい人だ」といってやっていい。
助けてもらっている方も立派である。
力があるから、気持ちよく与えられる。
足りない部分を、与えてもらえる。
互恵の関係である。
これが、価値づけである。
学級教育において、価値のあることは「社会に出てはたらく力」である。
筆頭は、協働。
これは必須の力である。
個人の能力は、もちろん高い方がいい。
しかしながら、高い能力をもちながら、それを自慢して分け与えないようでは、組織にとって邪魔者である。
価値がないというより、害悪ですらある。
だから、100点を自慢したり自分の成績・成果に得々としていることは、集団にとって無価値どころか害悪であると考える。
もっているものや経験を自慢するのも鬱陶しい行為である。
能ある鷹は爪を隠す、というのは、ずっと引っ込み思案なのではなく、いざ必要な時に爪を出せるということである。
その行為を褒めるとどうなるのか。
繰り返すが、教育は、価値づけの連続である。
心理学を学ぶのは、人を操るためではなく、自分が操られないためである。
力で支配しようとする人などは、心理学で分析するとよくわかる。
力とは、物理的なものと心理的なものが合わさってできている。
DVなどは、物理的な攻撃に加え、心理的にも罪悪感を植え付ける行為である。
暴力を振るわれる側にも落ち度がある、暴力を振るわせているあなたが悪いという、無茶苦茶な論理を通す。
「そうかも」と思わせて支配するのが上手いのである。
マイナスの力による支配というのもある。
涙や落ち込んだ態度で、相手に罪悪感を植え付ける方法である。
「かわいそう」「これを助けないあなたは人でなし」というような心理にさせるのが上手い。
いわゆる「泣き落とし」である。
これもよろしくない。
勝手に「善行」「サービス」を施して、見返りを要求する手法もある。
(身近なところだと、試食や無料サンプルである。)
サービスを受けると、返さないとまずいという返報の法則が働く。
徒然と羅列したが、こういうのはたくさんある。
他人には使わないが、使われて操作されないように心がけてはいる。
これをいつも教育に当てはめて考えている。
教育は、心理学でいう「価値づけ」行為の連続なのである。
例えば以前「100点を褒めない」ということを書いた。
(プレジデントオンライン記事 「100点答案」を褒めると勉強嫌いになる)
https://president.jp/articles/-/22234
100点というのは、自分の力がついた結果なのである。
「それはよかったね」という感じである。
それ以上でもそれ以下でもない。
なぜか。
まだ個人の力で終わっているからである。
それは、何ら他に貢献していないからである。
100点がとれなくても、勉強ができなくて困っている仲間を助けている子どもがいる。
これは「君はすごい人だ」といってやっていい。
助けてもらっている方も立派である。
力があるから、気持ちよく与えられる。
足りない部分を、与えてもらえる。
互恵の関係である。
これが、価値づけである。
学級教育において、価値のあることは「社会に出てはたらく力」である。
筆頭は、協働。
これは必須の力である。
個人の能力は、もちろん高い方がいい。
しかしながら、高い能力をもちながら、それを自慢して分け与えないようでは、組織にとって邪魔者である。
価値がないというより、害悪ですらある。
だから、100点を自慢したり自分の成績・成果に得々としていることは、集団にとって無価値どころか害悪であると考える。
もっているものや経験を自慢するのも鬱陶しい行為である。
能ある鷹は爪を隠す、というのは、ずっと引っ込み思案なのではなく、いざ必要な時に爪を出せるということである。
その行為を褒めるとどうなるのか。
繰り返すが、教育は、価値づけの連続である。
2019年8月5日月曜日
分福
セミナーで話したことのシェア。
分福。
読み方はそのまま「ぶんぷく」である。
音がかわいらしいが、なかなかに深淵な言葉である。
昔話の「分福茶釜」の分福である。(あれは「ぶんぶく」と読むらしいが。)
ちなみに、これは明治の文豪、幸田露伴の唱えた「幸福三説」から来るらしい。(「ウィキペディア」参照。)
「惜福」「分福」「植福」の三つからなるという。
どれも深淵な言葉である。
私がこの言葉を知ったのは、師の野口芳宏先生からである。
野口先生は
「手に入れたものはすべて失い、与えたものだけが残る。」
という言葉を座右の銘にしておられる。
(引用文献『利他の教育実践哲学』小学館 私が「最も好きな本」の筆頭に挙げる一押しの名著である。)
https://www.shogakukan.co.jp/books/09837391
つまり、与えるということが全てである。
良いものを自分だけで抱え込んで、持っていてはいけない。
良い知識を得たら、人に分けること。
自分の幸せを分かち合うこと。
即ち、分福である。
メルマガも本もセミナーも、すべて分福が基本である。
相手の幸せに貢献できるかどうかが価値の全てである。
なぜこれを話したのかというと、「どういう学びをしてきたのか」という質問があったからである。
私は、周りの人に恵まれた。
たくさんいいことを教えてもらって、このまま自分だけで抱え込んでいたら地獄に落ちると思ったからである。
何より、そういう師をもつことが大切である。
そんなことを話した次第である。
分福。
子どもは教師の自己実現の道具ではない。
むしろ、教師が子どもの自己実現の道具足りうることが大切である。
人生において人様から学ばせていただいたことを、子どもたちにしっかりと還元すれば、地獄行きは免れるかもしれない。
学級経営においても、分福の視点を忘れずにいたい。
分福。
読み方はそのまま「ぶんぷく」である。
音がかわいらしいが、なかなかに深淵な言葉である。
昔話の「分福茶釜」の分福である。(あれは「ぶんぶく」と読むらしいが。)
ちなみに、これは明治の文豪、幸田露伴の唱えた「幸福三説」から来るらしい。(「ウィキペディア」参照。)
「惜福」「分福」「植福」の三つからなるという。
どれも深淵な言葉である。
私がこの言葉を知ったのは、師の野口芳宏先生からである。
野口先生は
「手に入れたものはすべて失い、与えたものだけが残る。」
という言葉を座右の銘にしておられる。
(引用文献『利他の教育実践哲学』小学館 私が「最も好きな本」の筆頭に挙げる一押しの名著である。)
https://www.shogakukan.co.jp/books/09837391
つまり、与えるということが全てである。
良いものを自分だけで抱え込んで、持っていてはいけない。
良い知識を得たら、人に分けること。
自分の幸せを分かち合うこと。
即ち、分福である。
メルマガも本もセミナーも、すべて分福が基本である。
相手の幸せに貢献できるかどうかが価値の全てである。
なぜこれを話したのかというと、「どういう学びをしてきたのか」という質問があったからである。
私は、周りの人に恵まれた。
たくさんいいことを教えてもらって、このまま自分だけで抱え込んでいたら地獄に落ちると思ったからである。
何より、そういう師をもつことが大切である。
そんなことを話した次第である。
分福。
子どもは教師の自己実現の道具ではない。
むしろ、教師が子どもの自己実現の道具足りうることが大切である。
人生において人様から学ばせていただいたことを、子どもたちにしっかりと還元すれば、地獄行きは免れるかもしれない。
学級経営においても、分福の視点を忘れずにいたい。
2019年8月4日日曜日
「散歩行ってきます」宣言を考える
出版記念セミナーでの学びのシェア。
教室で座っていられない子どもをどうするか、というのが複数の方の共通の悩みに上がった。
「教室を飛び出す」という悩み。
もう一方は「お散歩に行ってきます!」といって廊下からぐるっと他の階を回って帰ってくる子ども。
これは、明らかに後者の状態の方がよい。
つまり「飛び出してしまう」を「出ます」と言ってから出るようにするということである。
衝動的に飛び出してしまうのは、身体的・精神的な欲求不満の爆発である。
一方で、宣言してから出るというのは、かなり自覚している。
「いや、教室で座っていてくれる方法が知りたい」と言われるかもしれない。
これは、無理である。
「動くものは動く」のである。
子どもは、自然に動く生き物なのである。
十分動いたら、自然と疲れるか飽きるかして座ることもある。
(注:こともある、程度である。)
これが前提として必要である。
動かさない方法ではなく、安全に動く方法を考える方が成功する。
一方、お年寄りは、あまり動かないのが一般的、自然である。
「いや、うちのおじいちゃんは徘徊して困る」という声もあるかもしれない。
しかし徘徊という行為も、背景には目的があるという。
何かを探しているのである。
目的があって動いているといえる。
子どもが動き回るのも、目的がある。
本能が動きたいのである。
本能を抑えることはできない。
それが自制できるまで発達を待つのが自然である。
だから、動き回らせる。
ただし、教室に帰ってこないのも困る。
ついていける人がいればいいのだが、大抵はいない。
校外に出るなどして、危険な目にあってはいけない。
だから、ここは交換条件の提示である。
「廊下を歩いてきていいから、一周して帰ってきて。」
というように、その子どもができそうな条件を提示してあげる必要がある。
無理めなやや高めの条件を提示した後に、「じゃあ」と条件を落としてうまく譲歩する。
「緩くしてもらった」と思わせることが大切である。
(セールスの手法と同じである。)
さて、「お散歩行ってきます!」宣言の子どもはどうレベルアップさせるか。
あくまで一つの例だが、「そろそろお散歩行ってきたら?」と逆にこっちから先手をとって促す方法がある。
言われると、やる気が失せる。
欲求は、抑えようとするから大きくなるのであって、促されると逆にしぼむという性質がある。
(「勉強やりなさい」の声かけが最悪の手法ということと同じ理論である。)
いつでもいくらでも、と言われると、それの価値が下がるのである。
これでもちろん「じゃあ、行ってきます!」となってもいい。
また促す。
また促す。
するとやがて「いや、今はいいや。」「結構です。」と言い出す可能性がある。
これは、私の実際の体験で、こんな感じで段階を踏む手もある。
このセミナーでも冒頭から言っていたことだが、どの方法であっても、「文脈」が大切である。
どういう関係性の中で使うかが全てである。
万人への正解はない。
ただ「子どもは動くものだ」という前提をもつことで、解が広がるのではないかと思う次第である。
教室で座っていられない子どもをどうするか、というのが複数の方の共通の悩みに上がった。
「教室を飛び出す」という悩み。
もう一方は「お散歩に行ってきます!」といって廊下からぐるっと他の階を回って帰ってくる子ども。
これは、明らかに後者の状態の方がよい。
つまり「飛び出してしまう」を「出ます」と言ってから出るようにするということである。
衝動的に飛び出してしまうのは、身体的・精神的な欲求不満の爆発である。
一方で、宣言してから出るというのは、かなり自覚している。
「いや、教室で座っていてくれる方法が知りたい」と言われるかもしれない。
これは、無理である。
「動くものは動く」のである。
子どもは、自然に動く生き物なのである。
十分動いたら、自然と疲れるか飽きるかして座ることもある。
(注:こともある、程度である。)
これが前提として必要である。
動かさない方法ではなく、安全に動く方法を考える方が成功する。
一方、お年寄りは、あまり動かないのが一般的、自然である。
「いや、うちのおじいちゃんは徘徊して困る」という声もあるかもしれない。
しかし徘徊という行為も、背景には目的があるという。
何かを探しているのである。
目的があって動いているといえる。
子どもが動き回るのも、目的がある。
本能が動きたいのである。
本能を抑えることはできない。
それが自制できるまで発達を待つのが自然である。
だから、動き回らせる。
ただし、教室に帰ってこないのも困る。
ついていける人がいればいいのだが、大抵はいない。
校外に出るなどして、危険な目にあってはいけない。
だから、ここは交換条件の提示である。
「廊下を歩いてきていいから、一周して帰ってきて。」
というように、その子どもができそうな条件を提示してあげる必要がある。
無理めなやや高めの条件を提示した後に、「じゃあ」と条件を落としてうまく譲歩する。
「緩くしてもらった」と思わせることが大切である。
(セールスの手法と同じである。)
さて、「お散歩行ってきます!」宣言の子どもはどうレベルアップさせるか。
あくまで一つの例だが、「そろそろお散歩行ってきたら?」と逆にこっちから先手をとって促す方法がある。
言われると、やる気が失せる。
欲求は、抑えようとするから大きくなるのであって、促されると逆にしぼむという性質がある。
(「勉強やりなさい」の声かけが最悪の手法ということと同じ理論である。)
いつでもいくらでも、と言われると、それの価値が下がるのである。
これでもちろん「じゃあ、行ってきます!」となってもいい。
また促す。
また促す。
するとやがて「いや、今はいいや。」「結構です。」と言い出す可能性がある。
これは、私の実際の体験で、こんな感じで段階を踏む手もある。
このセミナーでも冒頭から言っていたことだが、どの方法であっても、「文脈」が大切である。
どういう関係性の中で使うかが全てである。
万人への正解はない。
ただ「子どもは動くものだ」という前提をもつことで、解が広がるのではないかと思う次第である。
2019年8月3日土曜日
セミナーも主体的・対話的で深い学びに
先日、友人が出版記念セミナーを開いてくれた。
(新刊といっても出たのが今年の頭なので、半年近く経った後だが。)
参加者は友人の一部の声かけだけで集まった方々である。
そして出版セミナーを冠している割に、私の本の話ではなく、参加者の悩みの解決を中心に行った。
これが、とてもよかったので、学びをシェアする。
ちなみに、私の話が良かった訳ではない。
参加者全員で悩みを解決する、というクラス会議に近いスタイルで行ったからである。
こうすると、たくさんの解決方法が出る上に、主体的・対話的に学ぶことができる。
あくまで「対話」であり「議論」ではないので、相手の話をよく聞いた上で前向きな提案をしていく。
(これは実は、木更津技法研で長らく野口芳宏先生がとっているのと同じ形の学習スタイルである。)
この会で、たくさんの話題と解決策が示された。
例えば「専科の先生の授業の時に子どもが騒ぐ。担任が入ると落ち着く。」といったケース。
「相手によって態度を変える問題」として、対話が行われた。
「あるある」な話であり、これを解決してきた経験のある人もいる。
参加者のお一人から
「子どもに専科の先生の授業の感想を書かせ、専科の先生に渡す」
という実例のアイデアが出た。
もちろん、いいものを渡すのである。
騒ぐ子ばかりではなく、中には、専科の先生の授業をとても楽しく受けている子どもが存在するからである。
そうすると、専科の先生の子どもの見方が変わる。
それにより、子どもも変わる。
+の相乗効果が生まれる。
つまり、担任がコーディネーターの役を務めるということである。
子どもの監視役でもなく、専科の先生に改善を求める役でもない。
子どもと専科をつなぐコーディネーター。
素敵な発想である。
コーディネーターとしての力。
これこそが、これからの学級担任に必要とされる力である。
学級担任が全知全能の存在として全てを授けるのではなく、子どもと周りをつなぐ役割をもつということである。
そうしている内に、やがて、担任の力を必要としなくなる。
これは一例だが、こんな話題がいくつも続いた。
一応それぞれにコメントしたものの、私の方が勉強になったぐらいである。
授業もセミナーも、一人からその方法の全てを学ぶ、というスタイルは、終焉を迎える時期に来ているのではないか。
これからの学校で教えることは、答えが一つのものばかりではない。
だからこそ、仲間との協働で多様な解を求めることがより必要になってくる。
大学入試の問題もそのように変わってくるはずである。
主体的・対話的で深い学びは、形の話ではない。
教育観と哲学の話である。
素晴らしい学びの機会をくれた友人と、その仲間の皆さんに感謝の気持ちでいっぱいである。
(新刊といっても出たのが今年の頭なので、半年近く経った後だが。)
参加者は友人の一部の声かけだけで集まった方々である。
そして出版セミナーを冠している割に、私の本の話ではなく、参加者の悩みの解決を中心に行った。
これが、とてもよかったので、学びをシェアする。
ちなみに、私の話が良かった訳ではない。
参加者全員で悩みを解決する、というクラス会議に近いスタイルで行ったからである。
こうすると、たくさんの解決方法が出る上に、主体的・対話的に学ぶことができる。
あくまで「対話」であり「議論」ではないので、相手の話をよく聞いた上で前向きな提案をしていく。
(これは実は、木更津技法研で長らく野口芳宏先生がとっているのと同じ形の学習スタイルである。)
この会で、たくさんの話題と解決策が示された。
例えば「専科の先生の授業の時に子どもが騒ぐ。担任が入ると落ち着く。」といったケース。
「相手によって態度を変える問題」として、対話が行われた。
「あるある」な話であり、これを解決してきた経験のある人もいる。
参加者のお一人から
「子どもに専科の先生の授業の感想を書かせ、専科の先生に渡す」
という実例のアイデアが出た。
もちろん、いいものを渡すのである。
騒ぐ子ばかりではなく、中には、専科の先生の授業をとても楽しく受けている子どもが存在するからである。
そうすると、専科の先生の子どもの見方が変わる。
それにより、子どもも変わる。
+の相乗効果が生まれる。
つまり、担任がコーディネーターの役を務めるということである。
子どもの監視役でもなく、専科の先生に改善を求める役でもない。
子どもと専科をつなぐコーディネーター。
素敵な発想である。
コーディネーターとしての力。
これこそが、これからの学級担任に必要とされる力である。
学級担任が全知全能の存在として全てを授けるのではなく、子どもと周りをつなぐ役割をもつということである。
そうしている内に、やがて、担任の力を必要としなくなる。
これは一例だが、こんな話題がいくつも続いた。
一応それぞれにコメントしたものの、私の方が勉強になったぐらいである。
授業もセミナーも、一人からその方法の全てを学ぶ、というスタイルは、終焉を迎える時期に来ているのではないか。
これからの学校で教えることは、答えが一つのものばかりではない。
だからこそ、仲間との協働で多様な解を求めることがより必要になってくる。
大学入試の問題もそのように変わってくるはずである。
主体的・対話的で深い学びは、形の話ではない。
教育観と哲学の話である。
素晴らしい学びの機会をくれた友人と、その仲間の皆さんに感謝の気持ちでいっぱいである。
2019年8月2日金曜日
いつ主体的・対話的で深い学びをやるか
主体的・対話的で深い学びについて。
文科省の示す方向性自体は、ほぼ完全に浸透した。
それがわかっているのに実現しないのはなぜなのか考える。
問題は、これを、いつ、どうやるかである。
答えは、子どもが学校に来ている間、常に、ずっとやるのである。
朝から放課後、それ以降まで、すべてで行う。
例えば授業研の時だけがんばってもダメである。
何かいい手をうったから、突然主体的な学びを始めるというのは有り得ない。
普段からつまらない授業をしているのだから、急に気合いを入れてもやっぱりつまらないのである。
いつも指導者の方を向いて話を聞くということが染み込んでいる子どもたちに、突然「さあ話合いましょう」といっても無理である。
そんなご都合主義は通らない。
(子どもは気を遣って形だけ整えてくれるかもしれないが。)
いつでもどこでも対話をしている状態でないと、対話的な学びにはならない。
急に深い学びに至ることもない。
普段の学びからして浅いから、突然深くしたくても、浅いままなのである。
いつでも些細な一つのことを深く掘り下げて考える習慣が身に付かないと、深い学びにはなり得ない。
あいさつ一つ、礼の仕方一つをとっても「なぜ」「なんのために」を常に問うことである。
それは、教師自身の一挙一動をとってもである。
例えば今回の夏休みの宿題は何のために出したのかを、教師の側が本当に深く真剣に考えていないのならば、子どもが深い学びをする訳はない。
そもそも主体的に学んでいるなら、宿題はいらないはずである。
主体の反対は客体。
指示されて動くのが常では到底身に付かない。
授業中ずっと黙って椅子に座って、出された課題に黙って従っているだけなのに「主体的」というのは考えにくい。
(それを進んでやろうと「自主的」にはなるかもしれない。
自主的な姿は、主体的な姿とは全く違う。)
対話的に学んでいるなら、必ず学習中に仲間と意見交換したり、話したりしているはずである。
それも、自然にやっているはずである。
けんかして相手をやりこめるのではなく、異なる意見から新たな解決方法を自分たちで見出しているはずである。
黙ってひたすら教師の話を聞き続けているということはない。
深く学んでいるなら、気付きがあるはずである。
問題を教わった手順通り解いて答えが出ればいいという浅いレベルにとどまらない。
その答えが本当に正しいのか、他のもっといい解や、考え方はないのか、考えるはずである。
また、なぜそれを学ぶのか、それがどう役立てていくのかも考えているはずである。
与えられた課題を終えて〇をつけてもらって、同級生より先だ上だ100点だと満足しているのは、極めて浅い証拠である。
(塾の点数によるクラス分けや習い事のレギュラー等の他者評価で、クラスメイトをランク付けして差別するなど最低最悪の姿である。)
主体的・対話的で深い学びを、日常に、当たり前の「普通」にすること。
朝のあいさつだろうが歌だろうが給食だろうが掃除だろうが、休み時間だろうが登下校中だろうが、常にである。
例えば掃除一つでも「もっときれいにするには」「みんなが快適になるには」「より短時間で終わらるには」と工夫し続ける。
あるいは、集中し、没頭している。
理想論と言われるかもしれないが、そこを目指さないのなら、実現はない。
何かこっちの求める時だけ、都合のいい姿に子どもがなるなんてことはない。
普段から行儀がよくない子どもであれば、大切ないざという時でも当然行儀が悪いというのと同じ理屈である。
「本番」だけ本気を出そうとしても、無駄である。
付け焼刃と厚化粧と一夜漬けと愛想笑いは同類で、どれも醜い偽物である。
これは、自戒を込めての言葉である。
初任者の頃の授業研で、やんちゃ坊主が全く興味をもたずに、強く叱ったことをよく思い出す。
エゴと見栄にまみれた、その醜い自分の姿を思い出すたびにぞっとし、嫌悪感で身震いする。
「やんちゃ坊主」たちは忖度しない分、その反応は正直で妥当性がある。
教師という立場は、自分が完全に間違っていても通るのが恐ろしいところである。
結局、主体的・対話的で深い学びも、日常が全て。
いつでもどこでも、自らがまずその姿を求め続ける姿勢をもちたい。
文科省の示す方向性自体は、ほぼ完全に浸透した。
それがわかっているのに実現しないのはなぜなのか考える。
問題は、これを、いつ、どうやるかである。
答えは、子どもが学校に来ている間、常に、ずっとやるのである。
朝から放課後、それ以降まで、すべてで行う。
例えば授業研の時だけがんばってもダメである。
何かいい手をうったから、突然主体的な学びを始めるというのは有り得ない。
普段からつまらない授業をしているのだから、急に気合いを入れてもやっぱりつまらないのである。
いつも指導者の方を向いて話を聞くということが染み込んでいる子どもたちに、突然「さあ話合いましょう」といっても無理である。
そんなご都合主義は通らない。
(子どもは気を遣って形だけ整えてくれるかもしれないが。)
いつでもどこでも対話をしている状態でないと、対話的な学びにはならない。
急に深い学びに至ることもない。
普段の学びからして浅いから、突然深くしたくても、浅いままなのである。
いつでも些細な一つのことを深く掘り下げて考える習慣が身に付かないと、深い学びにはなり得ない。
あいさつ一つ、礼の仕方一つをとっても「なぜ」「なんのために」を常に問うことである。
それは、教師自身の一挙一動をとってもである。
例えば今回の夏休みの宿題は何のために出したのかを、教師の側が本当に深く真剣に考えていないのならば、子どもが深い学びをする訳はない。
そもそも主体的に学んでいるなら、宿題はいらないはずである。
主体の反対は客体。
指示されて動くのが常では到底身に付かない。
授業中ずっと黙って椅子に座って、出された課題に黙って従っているだけなのに「主体的」というのは考えにくい。
(それを進んでやろうと「自主的」にはなるかもしれない。
自主的な姿は、主体的な姿とは全く違う。)
対話的に学んでいるなら、必ず学習中に仲間と意見交換したり、話したりしているはずである。
それも、自然にやっているはずである。
けんかして相手をやりこめるのではなく、異なる意見から新たな解決方法を自分たちで見出しているはずである。
黙ってひたすら教師の話を聞き続けているということはない。
深く学んでいるなら、気付きがあるはずである。
問題を教わった手順通り解いて答えが出ればいいという浅いレベルにとどまらない。
その答えが本当に正しいのか、他のもっといい解や、考え方はないのか、考えるはずである。
また、なぜそれを学ぶのか、それがどう役立てていくのかも考えているはずである。
与えられた課題を終えて〇をつけてもらって、同級生より先だ上だ100点だと満足しているのは、極めて浅い証拠である。
(塾の点数によるクラス分けや習い事のレギュラー等の他者評価で、クラスメイトをランク付けして差別するなど最低最悪の姿である。)
主体的・対話的で深い学びを、日常に、当たり前の「普通」にすること。
朝のあいさつだろうが歌だろうが給食だろうが掃除だろうが、休み時間だろうが登下校中だろうが、常にである。
例えば掃除一つでも「もっときれいにするには」「みんなが快適になるには」「より短時間で終わらるには」と工夫し続ける。
あるいは、集中し、没頭している。
理想論と言われるかもしれないが、そこを目指さないのなら、実現はない。
何かこっちの求める時だけ、都合のいい姿に子どもがなるなんてことはない。
普段から行儀がよくない子どもであれば、大切ないざという時でも当然行儀が悪いというのと同じ理屈である。
「本番」だけ本気を出そうとしても、無駄である。
付け焼刃と厚化粧と一夜漬けと愛想笑いは同類で、どれも醜い偽物である。
これは、自戒を込めての言葉である。
初任者の頃の授業研で、やんちゃ坊主が全く興味をもたずに、強く叱ったことをよく思い出す。
エゴと見栄にまみれた、その醜い自分の姿を思い出すたびにぞっとし、嫌悪感で身震いする。
「やんちゃ坊主」たちは忖度しない分、その反応は正直で妥当性がある。
教師という立場は、自分が完全に間違っていても通るのが恐ろしいところである。
結局、主体的・対話的で深い学びも、日常が全て。
いつでもどこでも、自らがまずその姿を求め続ける姿勢をもちたい。
2019年8月1日木曜日
仕事への「適応能力」を高める
「とっさ!のうまい対応」について。
今年出た新刊のタイトルの一部である。
「とっさの対応」はどう身に付くのかという話。
以前にも書いたが、今大学の授業で、健康教育について学んでいる。
面白い話を知った。
日本人と熱帯地域に暮らす人々の暑さへの適応能力の比較である。
両者の「汗腺」の数に差があるか。
汗腺とは、身体から汗を出す腺のことである。
これは、差がある。
熱帯地域の人々の方が約2割増しで多いという。
では、汗をより多くかくのはどちらか。
これは意外にも、日本人の方である。
暑さへの反応が強いため、すぐに汗をかく。
そうなると、何のために熱帯の人々の汗腺数が多いのかということになるが、これは後述。
続いて、同じ量の汗の塩分濃度。
どちらが濃いか。
これも、日本人の方が濃いらしい。
総じて、これらの特性は「暑さへの適応能力」ということで説明される。
つまり、暑さという環境要因に上手に対応できる能力の高さである。
普段からちょっとした暑さに敏感に反応していると、水分も塩分も出切ってしまう。
だから、熱帯地域の人々の身体には、水分も汗も「節約」する機能がある。
一方で「突然の異常な暑さ」に適応する能力もある。
これが、汗腺の数の多さである。
普段すべての汗腺がフル稼働している訳でなく、余裕がある。
「とっさの対応」用として、他が控えているという状態である。
ちなみに、これらの身体的機能は、遺伝性ではなく後天性であるという。
日本人の赤ん坊を熱帯地域で育てれば、そのようになるということから証明されている。
よくできたものである。
話を戻すと、つまり、とっさの対応能力というのは、「普段からの無駄の排除」と「余裕の多さ」に関係するともいえる。
(お金の話に似ている。)
普段が全力100%でいっぱいいっぱいだと、それに加わる緊急の事態に対応できない。
それはとりもなおさず、より良くするためのプラスアルファにかける力も残っていないということでもある。
「緊急で重要」という事態に苦労する上に、「緊急でないが重要」というレベルアップのための活動もできない。
常に「今すぐやるべきこと」ばかりに追われ続けることになる。
これを防ぐには、働き方を変えて、余力、余裕を生み出す工夫が必要である。
方向は、大きく二つ。
一つは、減らす、捨てる方向。
暑さの適応の話でいうと「節約機能」の方である。
無理・無駄をなくし、環境自体を快適にするという方向である。
仕事術の本などを参考に、モノの廃棄や仕事の精査をすることがこれに貢献する。
もう一つは、増やす、余裕をもつという方向。
暑さの適応の話でいうと、「汗腺の数を増やす」の方である。
普段から余力を残し、対応できる幅自体を増やす。
リラックスタイムと勉強の両方がこれに貢献する。
勉強の時間すらもろくに取れないという状態は、常に「ジリ貧」が続き、がんばっているのに後退することになる。
(レベルアップなしで常に同じレベルの相手と戦い続けている状態である。常に苦戦が続き、いずれ体力が尽きる。)
仕事へも「適応能力」という視点で見つめ直すと、見えるものがあるかもしれないと感じた次第である。
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