前号の「変さ値」の話と関連して、多数決の危うさ、ダークサイドについて。
結論から言うと、多数決は危険である。
(感情的に言うと、嫌いである。)
しかしながら、多数決にはものすごい力がある。
数が多いというのは、力である。
しかも、数が多いほど責任分散ができるので、多数派に乗るのは、個人的に見ると無責任でかつ最も安全な選択である。
世の中の多くのことは、多数決で決まる。
特に大事なことの多くが、多数決で決まる。
先の参院選があったように、選挙はその最も顕著な例である。
国会も裁判所も同じである。
「数は正義」である。
多数に賛成してもらえるような説得材料を揃られるかが勝負になる。
人気がある、というのも、多数決と同様のことである。
今流行りの人気の〇〇、というのは、多数の支持を得て需要のあるものである。
これだけでも価値がある。
いや、価値を値段、価格で計るならば、相当な高い価値がある。
ただ、高い価値があるが、それが「本質的に良い」とは限らない。
人気の有名人の不正な行為。
あるいは、ネット上で出回る残忍な動画。
いたずらや社会的に悪い行為を撮影し、ネット上に公開した動画。
ものすごいレビューとコメントがつくらしい。
そうらしいが、それが本当に良いもの、見るべきものかというと、明らかに「ノー」である。
なぜそういうことが起きるかというと、「多数派」のものに対しては、自分の頭をきちんと使わなくなるからである。
「何か面白そう」「周りがいい(面白い)と言っている」辺りの適当な判断基準になりがちである。
先に述べたように、責任分散の心理的効果がそれを後押しする。
しかしながら繰り返すように、それでも多数決は、決定の大きな力である。
つまりは一方で「正しいかもしれない少数」を確実に葬り去る最強の手段でもある。
「普通」から外れているものは、少数派、いわゆるマイノリティである。
マイノリティにとっては、多数決ほど恐ろしいことはない。
正当性とか真実・真理とか一切関係なく、太刀打ち自体ができない。
数という名の正義の暴力の前にひれ伏すだけである。
その暴力の前に、力(数)なき弱い者(=少数派)は淘汰される。
これは、世の中とか大きな規模だけでなく、学級の授業という小さな単位でも起こる。
よくあるのが、学級会の提案の決定。
多数決で決めることが多いかもしれない。
しかしそれは、少数派の子どもの意見を却下している可能性、あるいはそもそも出せなくしている可能性がある。
仕方のない時もあるかもしれないが、多数決は「どうしてもやむを得ない場合の最低の下手の手段」として自覚する必要がある。
多数決自体は、決して民主主義ではないし、上等な決め方でもない。
民主主義の本質とは、多数を優先することではなく、少数を捨て置かないことだからである。
無責任な単なる多数決は、真実・真理を求める方向とは真逆である。
こういった考え方を、学級の子どもとも共有しておく必要がある。
(私は、よく天動説と地動説の話を例に、これを教える。一年生相手でもする。
特に真理を扱う学問に、多数決は馴染まない。)
授業、あるいは学級会をやるとよくわかるが、子どもの本当の「価値ある良い意見」というのは、大抵大反対されたり、黙殺されたりする。
なぜならば大多数の「常識」から外れた「変」な意見であり、ほとんどの子どもが発言の真の価値に気付けないからである。
これは、ガリレオ・ガリレイが投獄されたのと同じである。
地球が回っているかどうかという真実と、大衆の多数決は一切関係がない。
大衆的特徴としては、自分の頭を使わずに「正義」を信じることが挙げられる。
キリストの言う通り「正義の石ころ」をみんなで投げつけようとするのが大衆である。
自分だけは、傷付きたくないのである。
不条理にいじめられている人がいるとわかっても、自分がいじめられるのは怖いから言い出せない、あるいは一緒に石を投げてしまう。
だから、「多数決を取ります」といって適当にきけば、必ず起こる残念な現象がある。
周りを見てからばらばらと手を挙げる「勇気なき残念な輩」が「多数」生まれてしまうのである。
責任をとりたくないし、少数派になりたくないのである。
それを防ぐには
「0.2秒以内に手を挙げる。それ以外は無効。」
というようなある程度厳しいルールの設定や
「一人でも手を挙げられる人は勇気がある」
というような少数であることへの価値づけを普段からしておく必要がある。
(しかしながら、ルールの設定自体は、本質ではない。)
道徳科の場合が特にわかりやすい。
模範解答的な意見には、誰しも反対しにくい。
一方で、「変」な意見には反対しやすい。
しかしなぜそんな考えをしたのか、深堀りすれば「なるほど」と唸る可能性もある。
しかし「大衆化」した頭では、それが想像できない。
周りに便乗して、ギャーギャー騒いで言いたい放題言う。
(そもそも、「大勢で騒ぐ」という集団行為自体が大衆的である。)
指導している教師が「大衆化」していれば、尚更である。
「お上の言葉」を天の声であるかのように忠実に従い続ける。
「例年通り」を無思考で踏襲する。
そうすれば、誰からも批判されず、無責任で安全である。
すると、自分の頭で考える力や想像力が鈍ってきて、感性が閉じ、やがて何も感じなくなる。
批判的思考とは、他人の意見にひねくれてみることではない。
自分の考えと照らし合わせ、自身の行為の是非を問い続ける思考法である。
つまり、「偉い人」や「みんな」が言ったからといって、鵜吞みにせずに、きちんと自分でよく噛んで味わうことである。
何事にせよ、言動の裏、真理をよくよく考える必要がある。
(拙著『切り返しの技術』https://www.amazon.co.jp/dp/4181907120
や『とっさのうまい対応』https://www.amazon.co.jp/dp/4181406237
にも繰り返し書いた通りである。)
多数決のダークサイド、危うさを自覚する。
当面、危険とわかっている内は、とりあえず安全である。
2019年7月23日火曜日
偏差値より「変さ値」を
今年度も実施された、全国学力・学習状況調査について。
今年度もいずれ結果が集計されて、やがてランキングされる。
実施した側は比較をしないといっても、ネット上ではご丁寧にされる。
ただし、公立校のみの結果である。
都道府県別のデータは公立小中学校の結果しか公表されていないためである。
以前にも述べたと思うが、再確認。
県別ランキングは、ほぼ全くあてにならない。
国立大の附属校と私立校の結果が一切入らないためである。
(参考文献:「学力」の経済学 中室牧子著 ディスカバー21
https://www.amazon.co.jp/dp/4799316850)
特に私立校が多い都心部等の地域では、そこを入れると結果が大幅に変わるという。
この無駄なランキングは、変な競争意識とダメな優越感&劣等感、危機感を煽るだけである。
(比較しない、あなたはオンリーワンだと子どもに口で言いながら、その実「平均」と比較が大好きである。)
偏差値とは、平均値を中心(50)とし、平均を重んじる思想の表れである。
(ちなみに私は大馬鹿なので、教師の職についてしばらく経ってから各学校に「偏差値」があることを知った。
数学で多少やっていたはずなのだが、必要性がなかったため、記憶から消えていたのかもしれない。
自分の学校選びに偏差値を全く見てこなかった証拠である。
大学選びの際も「小学校教師を目指すのに東大にまで行く必要はなさそう」ぐらいの感覚だった。)
「偏差値」より、私は「変さ値」(松尾造語)の方が大切ではないかと考えている。
特徴的に、他とは違うことである。
一般的に「変」と言われるのは、褒め言葉ではない。
しかしながら「君は普通だね」「どこにでもいるタイプだね」と言われても嬉しくないのではないか。
実際、学校教育では「変さ値」を求めない。
なぜならば、学校教育は、到達すべき学習内容の程度が定まっており、そこを基準とするからである。
つまり各学校、学級で「平均」の値を上げることが求められる。
テストでは独創的であることよりも、学習内容を忠実に再現する力が求められる。
学校生活においても、協調性が何よりも大切である。
「みんな揃って」が習い性になっており、大好きなのである。
あらゆることにおいて、あまり「普通」から外れていないことが大切である。
だから、学力状況調査でも、平均点を必ず出す。
「普通」への到達度を知らせるためである。
また、「普通」から外れた「変なやつ」は、いじめの対象でもある。
理由は「普通じゃない、変だから。」である。(ちなみに、能力的に上に突出していてもいじめられる。)
これは、よろしくない。
よろしくないが、現状仕方ないことである。
先に述べたように、大人も子どもも平均から見た比較、ランキングが大好きなのだから仕方ない。
そして都道府県間の学力を比べたところで、所詮「どんぐりの背比べ」である。
こんなことに世間が一喜一憂、反応するから、教育委員会の方も指導せざるを得ない状況になって、学校現場も困るのではないかと思われる。
自分たちで互いに首を絞め合って、苦しみあえぐ。
どうしようもない「ドS&ドM」な生き物である。
(ちなみに、これは文科省が本来求めているところではない。
世間が勝手にランキングをつけて騒いでいるのである。)
ところで、平均、普通、均質、手順に沿った再現性、こういったことに特化して強いものがある。
そう、コンピューターである。
ロボットの大得意分野である。
計算速度が最もわかりやすいが、人間の処理速度の比ではない。
こういう答えのある作業系能力が必要な職業は、すべてロボットが代替するようになる。
そう考えるとやはり、ここで学校が子どもに育てるべきは「変さ値」の尊重である。
どんなに「普通」に近づいても、ロボット以下ということになる。
ロボットの作業効率は、人間とは桁違いである。
ロボットにはない人間としての特徴、能力が求められる
「変」はマイナスにも捉えられるが、唯一無二の最強の武器にもなり得る。
例えばわかりやすい例として、声。
「声が変」という理由でいじめられた、という経験のある人は結構いる。
一方で、その経験を乗り越え、その天から与えられた声を最強の武器にして、世に大きく出た人たちは多い。
例えば、元ドラえもんの声優の大山のぶ代。
例えば、歌手の大塚愛。
よくよく考えれば、声優や歌手が「普通」の声では、需要がない。
「変」=平均とはかけ離れているからこそ、唯一無二になる。
そして自分の「変さ値」を認めてもらうには、仲間の「変さ値」も認めないといけない。
「変」が、排除の対象にならない。
むしろ、個性として歓迎される集団を育てるような教育が大切である。
学力状況調査の勝手なランキング。
無意味な平均、普通との比較。
わかるのだが、いい加減に下らないことは止めないか、と言いたい昨今である。
今年度もいずれ結果が集計されて、やがてランキングされる。
実施した側は比較をしないといっても、ネット上ではご丁寧にされる。
ただし、公立校のみの結果である。
都道府県別のデータは公立小中学校の結果しか公表されていないためである。
以前にも述べたと思うが、再確認。
県別ランキングは、ほぼ全くあてにならない。
国立大の附属校と私立校の結果が一切入らないためである。
(参考文献:「学力」の経済学 中室牧子著 ディスカバー21
https://www.amazon.co.jp/dp/4799316850)
特に私立校が多い都心部等の地域では、そこを入れると結果が大幅に変わるという。
この無駄なランキングは、変な競争意識とダメな優越感&劣等感、危機感を煽るだけである。
(比較しない、あなたはオンリーワンだと子どもに口で言いながら、その実「平均」と比較が大好きである。)
偏差値とは、平均値を中心(50)とし、平均を重んじる思想の表れである。
(ちなみに私は大馬鹿なので、教師の職についてしばらく経ってから各学校に「偏差値」があることを知った。
数学で多少やっていたはずなのだが、必要性がなかったため、記憶から消えていたのかもしれない。
自分の学校選びに偏差値を全く見てこなかった証拠である。
大学選びの際も「小学校教師を目指すのに東大にまで行く必要はなさそう」ぐらいの感覚だった。)
「偏差値」より、私は「変さ値」(松尾造語)の方が大切ではないかと考えている。
特徴的に、他とは違うことである。
一般的に「変」と言われるのは、褒め言葉ではない。
しかしながら「君は普通だね」「どこにでもいるタイプだね」と言われても嬉しくないのではないか。
実際、学校教育では「変さ値」を求めない。
なぜならば、学校教育は、到達すべき学習内容の程度が定まっており、そこを基準とするからである。
つまり各学校、学級で「平均」の値を上げることが求められる。
テストでは独創的であることよりも、学習内容を忠実に再現する力が求められる。
学校生活においても、協調性が何よりも大切である。
「みんな揃って」が習い性になっており、大好きなのである。
あらゆることにおいて、あまり「普通」から外れていないことが大切である。
だから、学力状況調査でも、平均点を必ず出す。
「普通」への到達度を知らせるためである。
また、「普通」から外れた「変なやつ」は、いじめの対象でもある。
理由は「普通じゃない、変だから。」である。(ちなみに、能力的に上に突出していてもいじめられる。)
これは、よろしくない。
よろしくないが、現状仕方ないことである。
先に述べたように、大人も子どもも平均から見た比較、ランキングが大好きなのだから仕方ない。
そして都道府県間の学力を比べたところで、所詮「どんぐりの背比べ」である。
こんなことに世間が一喜一憂、反応するから、教育委員会の方も指導せざるを得ない状況になって、学校現場も困るのではないかと思われる。
自分たちで互いに首を絞め合って、苦しみあえぐ。
どうしようもない「ドS&ドM」な生き物である。
(ちなみに、これは文科省が本来求めているところではない。
世間が勝手にランキングをつけて騒いでいるのである。)
ところで、平均、普通、均質、手順に沿った再現性、こういったことに特化して強いものがある。
そう、コンピューターである。
ロボットの大得意分野である。
計算速度が最もわかりやすいが、人間の処理速度の比ではない。
こういう答えのある作業系能力が必要な職業は、すべてロボットが代替するようになる。
そう考えるとやはり、ここで学校が子どもに育てるべきは「変さ値」の尊重である。
どんなに「普通」に近づいても、ロボット以下ということになる。
ロボットの作業効率は、人間とは桁違いである。
ロボットにはない人間としての特徴、能力が求められる
「変」はマイナスにも捉えられるが、唯一無二の最強の武器にもなり得る。
例えばわかりやすい例として、声。
「声が変」という理由でいじめられた、という経験のある人は結構いる。
一方で、その経験を乗り越え、その天から与えられた声を最強の武器にして、世に大きく出た人たちは多い。
例えば、元ドラえもんの声優の大山のぶ代。
例えば、歌手の大塚愛。
よくよく考えれば、声優や歌手が「普通」の声では、需要がない。
「変」=平均とはかけ離れているからこそ、唯一無二になる。
そして自分の「変さ値」を認めてもらうには、仲間の「変さ値」も認めないといけない。
「変」が、排除の対象にならない。
むしろ、個性として歓迎される集団を育てるような教育が大切である。
学力状況調査の勝手なランキング。
無意味な平均、普通との比較。
わかるのだが、いい加減に下らないことは止めないか、と言いたい昨今である。
2019年7月22日月曜日
自治的学級づくりと信頼関係
前号の話になるが、自治的学級づくりを考える上において、次の本を紹介した。
『ぼくたちに翼があったころ コルチャック先生と107人の子どもたち』
タミ・シェム=トヴ 作 / 樋口 範子 訳 / 岡本 よしろう 画 福音館書店
https://www.fukuinkan.co.jp/book/?id=1644
なぜあの話の流れでこの本をおすすめしたのか、やや説明不足だったので、書く。
この本は、まさに子どもの権利を守った、戦時下ポーランドの「家」の物語である。
この孤児院は「家」と呼ばれていた。
「家」の創設者は、ユダヤ人の医師である「ドクトル」ことコルチャック先生。
ポーランド、ユダヤ人、戦争中、ときけば、ヒトラーのホロコーストが連想されるだろう。
そんな時代の話である。
この「家」では、2歳の幼児から15歳の少年少女107人が共同生活を送っている。
主に上級生が選挙で各部署のリーダーとなり、「家」の様々な役割を取り仕切る。
そのすべてが子どもの自治により運営される。
(「ハリーポッター」の魔法学校のイメージである。)
「家」では十分な食料と衣類品が支給され、ふかふかのベッドで眠れる。
これだけでも、どん底の貧困の中で暮らしていた子どもたちにとって、文字通り天国のような場所である。
「安全・安心」が保障されている。
何と、「家」の中での裁判もある。
「〇〇さんにとても腹が立つので殴ってやりたい」という申し出もできる。
「先生のあの行為、言動に不服だ」ということで申し出ることもできる。
陪審員は完全なくじによる5名の選出。
「ルール」が子どもたちの手によって保障されている。
(ちなみに、裁判は大抵が事前の話合いで取り下げか、「落ち度のある側に今後の注意を促す」ということで決着する。)
さらにこの「家」では1か月を別荘の大自然の中で過ごすサマーキャンプもある。
運動会もあるし新聞の発行もあるし、様々な文化的活動がある。
「楽しさ」も子どもたちが生み出している。
つまり、80年以上前に、戦時下で最悪の状況の国で、理想的な自治的集団が存在していたということである。
即ち、今の我々にできないはずがない。
環境も何もかも、この状況より各段に揃っているのである。
しかし、なかなか実現しない。
なぜなのか。
やはりこれは、大人の「観」や「信念」によるもの、としか結論づけられない。
子どもを、その権利を、どう見ているかという問題である。
子どもへの「愛情」というものをどう捉えるか。
子どもには、豊かに健やかに、幸せに育って欲しいと願う。
しかし、やたら与えればいいというものでもない。
やたら守ればいいというものでもない。
子どもには、伸びる力がある。
踏まれても潰れても立ち上がる生命力もある。
どこまで守って、どこから挑戦させるか、ということである。
学級づくりにおいても、このあたりの匙加減が肝である。
支援として、それぞれに必要な環境は与える。
一方で、失敗しながらでも自ら獲得が期待できる部分は与えない。
指導はしても、手は出さない。
そこが、信頼関係の問題である。
自治的学級づくりを考える上で参考になるので、紹介してみた。
『ぼくたちに翼があったころ コルチャック先生と107人の子どもたち』
タミ・シェム=トヴ 作 / 樋口 範子 訳 / 岡本 よしろう 画 福音館書店
https://www.fukuinkan.co.jp/book/?id=1644
なぜあの話の流れでこの本をおすすめしたのか、やや説明不足だったので、書く。
この本は、まさに子どもの権利を守った、戦時下ポーランドの「家」の物語である。
この孤児院は「家」と呼ばれていた。
「家」の創設者は、ユダヤ人の医師である「ドクトル」ことコルチャック先生。
ポーランド、ユダヤ人、戦争中、ときけば、ヒトラーのホロコーストが連想されるだろう。
そんな時代の話である。
この「家」では、2歳の幼児から15歳の少年少女107人が共同生活を送っている。
主に上級生が選挙で各部署のリーダーとなり、「家」の様々な役割を取り仕切る。
そのすべてが子どもの自治により運営される。
(「ハリーポッター」の魔法学校のイメージである。)
「家」では十分な食料と衣類品が支給され、ふかふかのベッドで眠れる。
これだけでも、どん底の貧困の中で暮らしていた子どもたちにとって、文字通り天国のような場所である。
「安全・安心」が保障されている。
何と、「家」の中での裁判もある。
「〇〇さんにとても腹が立つので殴ってやりたい」という申し出もできる。
「先生のあの行為、言動に不服だ」ということで申し出ることもできる。
陪審員は完全なくじによる5名の選出。
「ルール」が子どもたちの手によって保障されている。
(ちなみに、裁判は大抵が事前の話合いで取り下げか、「落ち度のある側に今後の注意を促す」ということで決着する。)
さらにこの「家」では1か月を別荘の大自然の中で過ごすサマーキャンプもある。
運動会もあるし新聞の発行もあるし、様々な文化的活動がある。
「楽しさ」も子どもたちが生み出している。
つまり、80年以上前に、戦時下で最悪の状況の国で、理想的な自治的集団が存在していたということである。
即ち、今の我々にできないはずがない。
環境も何もかも、この状況より各段に揃っているのである。
しかし、なかなか実現しない。
なぜなのか。
やはりこれは、大人の「観」や「信念」によるもの、としか結論づけられない。
子どもを、その権利を、どう見ているかという問題である。
子どもへの「愛情」というものをどう捉えるか。
子どもには、豊かに健やかに、幸せに育って欲しいと願う。
しかし、やたら与えればいいというものでもない。
やたら守ればいいというものでもない。
子どもには、伸びる力がある。
踏まれても潰れても立ち上がる生命力もある。
どこまで守って、どこから挑戦させるか、ということである。
学級づくりにおいても、このあたりの匙加減が肝である。
支援として、それぞれに必要な環境は与える。
一方で、失敗しながらでも自ら獲得が期待できる部分は与えない。
指導はしても、手は出さない。
そこが、信頼関係の問題である。
自治的学級づくりを考える上で参考になるので、紹介してみた。
2019年7月21日日曜日
自治的学級づくりをどう実現するか
学級づくりを考える時には「先生自身が最も影響力のある教室環境である」という点をまずおさえる。
どんなにやり方を考えて工夫しても、担任自身が変わらないと、根本的には何も変わらない。
子どもが育つことと同じで、あくまで内側からの変化であり、外付けできないのである。
今の時代、いわゆる有名講師のセミナーが、全国のどこでも受けられる。
資料や書籍もネットで簡単に手に入る。
だから、あらゆる実践が、自分の教室ですぐに真似できる。
これ自体はいいことなのだが、問題がある。
実践が「パッチワーク」的になるのである。
(この表現は赤坂真二先生のセミナーで聞いたものである。)
異なる「観」に裏付けられた実践をつなぎ合わせることになる。
ごく極端に言うと、管理を目的とした手法と、主体性の育成を目的とした手法を同時に行う事態が起きる。
何が起きるか。
内部での混乱である。
特に素直な子どもたちは、担任に調子を合わせてくれる。
機械のように部品が合わないと全く動かないものと違い、人間には柔軟性がある。
自然界にない人工的な食材や栄養素でも、体に入ってきた以上無理矢理に消化しようとする。
それと似ていて、子どもに柔軟性があるが故に、教師自身の間違いに気付きにくいのである。
断言するが、どんなに優れた手法を使っても、根本的な学級づくりの変革にはつながらない。
表面的には変わるが、内面、内実は何も変わらない。
それは、上手な化粧のようなものである。
化粧で外見がどんなに美しくなっても、肌が美しくなった訳でも、人間的に素晴らしく変身した訳でもない。
(ただし、周囲の評価が上がるし、本人の自信になるという点で意味がある。ただし、表面的な評価と自信である。)
手法自体を変えても、本質は変わらない。
根本的には、担任の「観」に沿った学級づくりがなされる。
いわゆる「ヒドゥンカリキュラム」もその一つの現れである。
(例:「努力が大切」と口で言っておきながら、実際には結果ばかりを褒め称えれば、努力より結果が大切というメッセージになる。)
だから、学級づくりにおいては、観を磨き、本人が実行することが何よりも大切である。
学校の「研修」における「研究」の方ではなく、「修養」の方である。
表面的ににこにこしてもダメ。
表面的に褒めてもダメ
いい話をしてもダメ。
そんなテクニカルなことは子どもにも簡単に見抜かれる。
子どもは、教師の人間性を見ている。
(本当に騙してしまっていたら、それこそが大きな罪である。)
教師は、子どものために存在する。
子どもに存在価値のすべてを規定されている。
親が親たるゆえんは、子どもの存在があってこそ、ということと同じである。
だから、自治的な学級づくりや主体性のある子どもを育てたいと願うなら、担任からである。
担任自身が自治的であり、主体性があることが前提条件である。
自身が自治的とは、自分のすべきことを自分でする、ということである。
現状に甘んじることなく自ら問いをもち、新たな解決の手立てを考え実行する、ということである。
自分の行動による結果のすべてに責任がもてるということである。
子どもに主体性を求めるなら、自分が主体性をもって変わることである。
そして、自治的学級づくりにおいては、子どもへのリスペクトは絶対条件である。
学級の子どもは一緒に学級をつくる同志であり、それぞれがそれぞれの主役であり、仲間である。
目の前の子どもは今より必ず良くなると、心の底から信じ込めることである。
本当に悪い子ども、だめな子どもなんて存在しないという観をもつことである。
果たして、この点において、どの程度信じられているか。
多分、これは担任として充実した人生を送れるかの決定的な点である。
だめな子なんて、いる訳がない。
必ず良くなるから、教育に存在価値があるのである。
もしここの教育観について揺れや疑いがあるなら、次の本をおすすめする。
『ぼくたちに翼があったころ コルチャック先生と107人の子どもたち』
タミ・シェム=トヴ 作 / 樋口 範子 訳 / 岡本 よしろう 画 福音館書店
https://www.fukuinkan.co.jp/book/?id=1644
孤児院の子どもたちと相対する真の教育者の姿を通して、感ずるものがあるはずである。
自治的学級づくりは、自分づくりから、ということで話を締めくくる。
どんなにやり方を考えて工夫しても、担任自身が変わらないと、根本的には何も変わらない。
子どもが育つことと同じで、あくまで内側からの変化であり、外付けできないのである。
今の時代、いわゆる有名講師のセミナーが、全国のどこでも受けられる。
資料や書籍もネットで簡単に手に入る。
だから、あらゆる実践が、自分の教室ですぐに真似できる。
これ自体はいいことなのだが、問題がある。
実践が「パッチワーク」的になるのである。
(この表現は赤坂真二先生のセミナーで聞いたものである。)
異なる「観」に裏付けられた実践をつなぎ合わせることになる。
ごく極端に言うと、管理を目的とした手法と、主体性の育成を目的とした手法を同時に行う事態が起きる。
何が起きるか。
内部での混乱である。
特に素直な子どもたちは、担任に調子を合わせてくれる。
機械のように部品が合わないと全く動かないものと違い、人間には柔軟性がある。
自然界にない人工的な食材や栄養素でも、体に入ってきた以上無理矢理に消化しようとする。
それと似ていて、子どもに柔軟性があるが故に、教師自身の間違いに気付きにくいのである。
断言するが、どんなに優れた手法を使っても、根本的な学級づくりの変革にはつながらない。
表面的には変わるが、内面、内実は何も変わらない。
それは、上手な化粧のようなものである。
化粧で外見がどんなに美しくなっても、肌が美しくなった訳でも、人間的に素晴らしく変身した訳でもない。
(ただし、周囲の評価が上がるし、本人の自信になるという点で意味がある。ただし、表面的な評価と自信である。)
手法自体を変えても、本質は変わらない。
根本的には、担任の「観」に沿った学級づくりがなされる。
いわゆる「ヒドゥンカリキュラム」もその一つの現れである。
(例:「努力が大切」と口で言っておきながら、実際には結果ばかりを褒め称えれば、努力より結果が大切というメッセージになる。)
だから、学級づくりにおいては、観を磨き、本人が実行することが何よりも大切である。
学校の「研修」における「研究」の方ではなく、「修養」の方である。
表面的ににこにこしてもダメ。
表面的に褒めてもダメ
いい話をしてもダメ。
そんなテクニカルなことは子どもにも簡単に見抜かれる。
子どもは、教師の人間性を見ている。
(本当に騙してしまっていたら、それこそが大きな罪である。)
教師は、子どものために存在する。
子どもに存在価値のすべてを規定されている。
親が親たるゆえんは、子どもの存在があってこそ、ということと同じである。
だから、自治的な学級づくりや主体性のある子どもを育てたいと願うなら、担任からである。
担任自身が自治的であり、主体性があることが前提条件である。
自身が自治的とは、自分のすべきことを自分でする、ということである。
現状に甘んじることなく自ら問いをもち、新たな解決の手立てを考え実行する、ということである。
自分の行動による結果のすべてに責任がもてるということである。
子どもに主体性を求めるなら、自分が主体性をもって変わることである。
そして、自治的学級づくりにおいては、子どもへのリスペクトは絶対条件である。
学級の子どもは一緒に学級をつくる同志であり、それぞれがそれぞれの主役であり、仲間である。
目の前の子どもは今より必ず良くなると、心の底から信じ込めることである。
本当に悪い子ども、だめな子どもなんて存在しないという観をもつことである。
果たして、この点において、どの程度信じられているか。
多分、これは担任として充実した人生を送れるかの決定的な点である。
だめな子なんて、いる訳がない。
必ず良くなるから、教育に存在価値があるのである。
もしここの教育観について揺れや疑いがあるなら、次の本をおすすめする。
『ぼくたちに翼があったころ コルチャック先生と107人の子どもたち』
タミ・シェム=トヴ 作 / 樋口 範子 訳 / 岡本 よしろう 画 福音館書店
https://www.fukuinkan.co.jp/book/?id=1644
孤児院の子どもたちと相対する真の教育者の姿を通して、感ずるものがあるはずである。
自治的学級づくりは、自分づくりから、ということで話を締めくくる。
2019年7月20日土曜日
子どもの「好き」や「楽しい」の言葉を見つめ直す
ブログの更新をすっかり忘れていた。
再開し、夏休み中は毎日更新していくことにする。
「楽しい?」ときくと、ある子どもは必ず「楽しい」と答える。
「〇〇でいい?」ときくと「これが好き」と答える。
教師や親からすれば、とっても聞き分けがよい、「いい子」である。
特徴として、真面目だし素直だし努力家である。
問題は、こういった子どもはこれが本心なようで、本心でないことがある、という点である。
どういうことか。
子どもにも「忖度」の心はある。
いや、むしろ、子どもの方が強いと言ってもいい。
誰に対してというと、もちろん親に対してである。
子どもは、親に対して気を遣っていることが結構ある。
いつも一緒の母親に対しては「愛されたい」「嫌われたくない」という思い。
たまに一緒の父親に対しては畏敬の念を抱きながらも「ちょっと遠い存在、他人」という思い。
これが悪いという訳ではない。
人間なら、当然抱く感情だし、考え方である。
例えば大人同士でも誰かに料理をご馳走になって口に合わない時「まずい」と伝える方が社会的に相当まずい。
そういうことを前提にもっておくということである。
子どもは「自分の親はこう答えると喜ぶ」ということを知っている。
だからつい無意識に、親の喜ぶ答えを読んで口にしてしまう。
(高学年になると、発達の早い子どもにとっては予定調和の授業がつまらなくなるというのもここに関連する。
また、反抗期には敢えて逆の答えでくることもある。)
これを、本人も気付かずに無意識に行っていることがある。
だから「うちの子は〇〇が好きで」という親の言葉も、話半分できく必要がある。
親が望むように、子どもは行動するからである。
価値基準や行動規範の原型が、親だからである。
「親が喜ぶ」ということをモチベーションに勉強する子どもがいる。
それはそれでいいのかもしれないが、度が過ぎるのはまずい。
それでは大人になってからも、誰の人生を生きているのかわからなくなる。
ワガママすぎるのも困るが、自分を他人や社会の犠牲にしすぎるのも困る。
何事もバランスである。
自分の心を、自分自身が意外とわかっていないのである。
長じると、自分の好き嫌いすらよくわからなくなる。
他人の選択があたかも自分の選択であるかのようになっていく。
どんなに忙しくても「まだ大丈夫」といって倒れてしまう人がいるのもこのせいである。
「がんばれない人はダメな自分、愛されない自分」と長年にわたって潜在意識に刷り込んでいる。
心と体が悲鳴を上げているのに、自分にきちんと向き合ってあげていない。
子どもにも起きる現象で、何かを成功して成し遂げた後「これでやっとやらなくて済む」と安堵する。
周りの期待から「好きでやっている」と自分に暗示をかけているだけで、本人は早く辞めたいのである。
子どもが自分を出せるようにする。
そのためには、心と体の解放である。
そういった感情は、完成された出来合いのものの中ではなく、自然の中でこそ育つ。
自然の中のものは、自然そのものである。
自然はただそこに自然として存在する。
生物はただ生きているし、そこに存在価値の優劣はない。
「自分は何もしないでも、存在そのものが愛される」という自然の状態である。
子どもはもちろん、大人にこそ必要である。
夏休み中は、大人も子どもも、本当にリラックスして、各自が自分の好きなことをして過ごすようにしたい。
再開し、夏休み中は毎日更新していくことにする。
「楽しい?」ときくと、ある子どもは必ず「楽しい」と答える。
「〇〇でいい?」ときくと「これが好き」と答える。
教師や親からすれば、とっても聞き分けがよい、「いい子」である。
特徴として、真面目だし素直だし努力家である。
問題は、こういった子どもはこれが本心なようで、本心でないことがある、という点である。
どういうことか。
子どもにも「忖度」の心はある。
いや、むしろ、子どもの方が強いと言ってもいい。
誰に対してというと、もちろん親に対してである。
子どもは、親に対して気を遣っていることが結構ある。
いつも一緒の母親に対しては「愛されたい」「嫌われたくない」という思い。
たまに一緒の父親に対しては畏敬の念を抱きながらも「ちょっと遠い存在、他人」という思い。
これが悪いという訳ではない。
人間なら、当然抱く感情だし、考え方である。
例えば大人同士でも誰かに料理をご馳走になって口に合わない時「まずい」と伝える方が社会的に相当まずい。
そういうことを前提にもっておくということである。
子どもは「自分の親はこう答えると喜ぶ」ということを知っている。
だからつい無意識に、親の喜ぶ答えを読んで口にしてしまう。
(高学年になると、発達の早い子どもにとっては予定調和の授業がつまらなくなるというのもここに関連する。
また、反抗期には敢えて逆の答えでくることもある。)
これを、本人も気付かずに無意識に行っていることがある。
だから「うちの子は〇〇が好きで」という親の言葉も、話半分できく必要がある。
親が望むように、子どもは行動するからである。
価値基準や行動規範の原型が、親だからである。
「親が喜ぶ」ということをモチベーションに勉強する子どもがいる。
それはそれでいいのかもしれないが、度が過ぎるのはまずい。
それでは大人になってからも、誰の人生を生きているのかわからなくなる。
ワガママすぎるのも困るが、自分を他人や社会の犠牲にしすぎるのも困る。
何事もバランスである。
自分の心を、自分自身が意外とわかっていないのである。
長じると、自分の好き嫌いすらよくわからなくなる。
他人の選択があたかも自分の選択であるかのようになっていく。
どんなに忙しくても「まだ大丈夫」といって倒れてしまう人がいるのもこのせいである。
「がんばれない人はダメな自分、愛されない自分」と長年にわたって潜在意識に刷り込んでいる。
心と体が悲鳴を上げているのに、自分にきちんと向き合ってあげていない。
子どもにも起きる現象で、何かを成功して成し遂げた後「これでやっとやらなくて済む」と安堵する。
周りの期待から「好きでやっている」と自分に暗示をかけているだけで、本人は早く辞めたいのである。
子どもが自分を出せるようにする。
そのためには、心と体の解放である。
そういった感情は、完成された出来合いのものの中ではなく、自然の中でこそ育つ。
自然の中のものは、自然そのものである。
自然はただそこに自然として存在する。
生物はただ生きているし、そこに存在価値の優劣はない。
「自分は何もしないでも、存在そのものが愛される」という自然の状態である。
子どもはもちろん、大人にこそ必要である。
夏休み中は、大人も子どもも、本当にリラックスして、各自が自分の好きなことをして過ごすようにしたい。
2019年7月3日水曜日
通知表の今昔
通知表の話の続き。
昨年度、「昭和館」という資料館の実物資料で、戦時中の小学一年生の通知表を見た。
80年ほど前の通知表である、
「今と何が同じで、何が違っていると考えられるか。
歴史的な背景も考慮して考えを述べなさい」
などという入試問題にも使えそうである。
ちょっと予想してから読み進めてもらいたい。
単にその方が、読んでて楽しいと思われるからである。
ただし、この通知表はほんの一例であり、全てがこの形式だった訳ではない。
それもわかった上で、気付いたことを羅列してみる。
1 教科と評定について
全教科の評定が甲乙丙の三段階でつけてある。
教科の記載の筆頭は「修身」、つまり今でいう道徳科である。
こちらもしっかりと評定されている。
国語の評定の記載は、その次である。
国語に関してのみ「読」「綴」「書」の三つの観点別評価である。
読むこと、作文、書の三つである。
「話す・聞く」は、ない。
そして理科や社会は一年生ではやらないので、斜線で消してある。
ここも同じである。
あとは算数や図工、音楽、体育などと続く。
(順番は忘れた。)
2 所見について
所見欄等、記述は一切ない。
当時の一学級あたりの子どもの数を考えると、納得である。
今は高学年だと
総合所見
特別活動の記録
総合的な学習の時間
外国語
道徳
の記述欄がある。
これを考えると、現在の通知表作成が負担にならない訳がない。
この記述を多くの保護者が「歓迎」「感動」してくれているのならば、労力も報われるが。
本当に「労多くして功少なし」な作業である。
3 出席日数等について
現在の通知表では、「出席」「欠席」「出席停止」がまとめて記載してあるのが通常と思われる。
当時は、教師の通知表と同じで、これの月毎の記載があった。
そして欄は
「出席」「病欠」「事故欠」「出席停止」である。
ここですごく引っかかった。
「事故欠」の記載。
80年前から、今も同じ表記である。
事故欠とは、交通事故等の欠席を指す訳ではない。
病気と通院以外の理由の、全ての「欠席」である。
(何を病気とみなすか、という判断の問題も含まれる。)
これは完全に予想だが、この当時は本当の「事故による欠席」が多かったと考えられる。
なんと言っても、戦時中である。
戦争中の非常事態に、事故はつきものである。
今は、どうか。
現代の事故欠の内訳は、ほぼ「家庭の都合」である。
つまり、自己の都合による欠席である。
この「事故欠」表記が現代において適切かというと、正直かなり紛らわしい。
「自己欠」の方が適切ではないかと思ってしまうぐらいである。
しかし、何十年もそのまま使われているのが現状である。
不易と流行というが、価値があるから不易なのである。
何となくとか当たり前とか慣例とかは、不易とは違う。
前例を踏襲しているだけ、付け加えているだけ、といった、変わるべきものは、まだまだありそうである。
昨年度、「昭和館」という資料館の実物資料で、戦時中の小学一年生の通知表を見た。
80年ほど前の通知表である、
「今と何が同じで、何が違っていると考えられるか。
歴史的な背景も考慮して考えを述べなさい」
などという入試問題にも使えそうである。
ちょっと予想してから読み進めてもらいたい。
単にその方が、読んでて楽しいと思われるからである。
ただし、この通知表はほんの一例であり、全てがこの形式だった訳ではない。
それもわかった上で、気付いたことを羅列してみる。
1 教科と評定について
全教科の評定が甲乙丙の三段階でつけてある。
教科の記載の筆頭は「修身」、つまり今でいう道徳科である。
こちらもしっかりと評定されている。
国語の評定の記載は、その次である。
国語に関してのみ「読」「綴」「書」の三つの観点別評価である。
読むこと、作文、書の三つである。
「話す・聞く」は、ない。
そして理科や社会は一年生ではやらないので、斜線で消してある。
ここも同じである。
あとは算数や図工、音楽、体育などと続く。
(順番は忘れた。)
2 所見について
所見欄等、記述は一切ない。
当時の一学級あたりの子どもの数を考えると、納得である。
今は高学年だと
総合所見
特別活動の記録
総合的な学習の時間
外国語
道徳
の記述欄がある。
これを考えると、現在の通知表作成が負担にならない訳がない。
この記述を多くの保護者が「歓迎」「感動」してくれているのならば、労力も報われるが。
本当に「労多くして功少なし」な作業である。
3 出席日数等について
現在の通知表では、「出席」「欠席」「出席停止」がまとめて記載してあるのが通常と思われる。
当時は、教師の通知表と同じで、これの月毎の記載があった。
そして欄は
「出席」「病欠」「事故欠」「出席停止」である。
ここですごく引っかかった。
「事故欠」の記載。
80年前から、今も同じ表記である。
事故欠とは、交通事故等の欠席を指す訳ではない。
病気と通院以外の理由の、全ての「欠席」である。
(何を病気とみなすか、という判断の問題も含まれる。)
これは完全に予想だが、この当時は本当の「事故による欠席」が多かったと考えられる。
なんと言っても、戦時中である。
戦争中の非常事態に、事故はつきものである。
今は、どうか。
現代の事故欠の内訳は、ほぼ「家庭の都合」である。
つまり、自己の都合による欠席である。
この「事故欠」表記が現代において適切かというと、正直かなり紛らわしい。
「自己欠」の方が適切ではないかと思ってしまうぐらいである。
しかし、何十年もそのまま使われているのが現状である。
不易と流行というが、価値があるから不易なのである。
何となくとか当たり前とか慣例とかは、不易とは違う。
前例を踏襲しているだけ、付け加えているだけ、といった、変わるべきものは、まだまだありそうである。
2019年7月1日月曜日
通知表って何なんだ
今の時期、数日間「短縮日課」になっている学校も多いと思われる。
通知表の成績をつけるためである。
子どもにとっては早く下校できるから、たくさん遊べるいい機会である。
ところで、通知表とは、法的にどのような位置づけのものなのか。
メルマガの方のタイトルに「二十代」を冠していることもあり、老婆心ながら記す。
以下、文科省のH.P.より引用である。
(元々が表になっているので、表記の都合上、一部改変して記す。)
==============
通知表(通信簿)
【法的な性格と内容】
・保護者に対して子どもの学習指導の状況を連絡し、家庭の理解や協力を求める目的で作成。
法的な根拠はなし。
【作成主体】
・作成、様式、内容等はすべて校長の裁量。
・自治体によっては校長会等で様式の参考例を作成している場合も。
【文部科学省の関与】
・なし。
================
文部科学省のH.P.に記されていながら、「関与なし」なのである。
つまり、法的には、なくても問題ない。
「慣例」である。
(ただし、指導要録は教育委員会の定めた様式で作成する必要がある。)
要は、法的根拠がないとはいえ、家庭の理解や協力を求めるのが存在理由である。
「子どもを励ます」というのは、正当な気がするので誰も反論しないだけで、実は時代の流れにおける後付けの理由である。
あくまで、保護者向けである。
個人的には、もう、これは、なくてもいい気がする。
子どもも保護者も、評価されるのが、本当に嬉しいのだろうか。
(道徳の記述評価が嬉しいのか、役に立つのかは、さらに疑問である。)
「知りたい」というのはわからないでもないが、実際、保護者が知ってどうこうできるものでもない。
現場での実感である。
「正しい評価」の弊害の面も考える必要がある。
例えば私は、当時相対評価だから仕方ないが「C」をくらった教科がいくつかある。
一生懸命やっての「C」である。
もちろん、嫌いになったし、今でもそれらの教科は不得意だと思い込んでいる面がある。
一方で、以前紹介したが、5段階で「音楽1」を付けられた子どもが、世界的な音楽家になることもある。
別に1だから発奮した訳ではなく、評価した側のミスである。
評価者の「見る目」の問題である。
通知表は、何のためにあるのか。
学校の「当たり前」を見直すべきものの一つである。
通知表の成績をつけるためである。
子どもにとっては早く下校できるから、たくさん遊べるいい機会である。
ところで、通知表とは、法的にどのような位置づけのものなのか。
メルマガの方のタイトルに「二十代」を冠していることもあり、老婆心ながら記す。
以下、文科省のH.P.より引用である。
(元々が表になっているので、表記の都合上、一部改変して記す。)
==============
通知表(通信簿)
【法的な性格と内容】
・保護者に対して子どもの学習指導の状況を連絡し、家庭の理解や協力を求める目的で作成。
法的な根拠はなし。
【作成主体】
・作成、様式、内容等はすべて校長の裁量。
・自治体によっては校長会等で様式の参考例を作成している場合も。
【文部科学省の関与】
・なし。
================
文部科学省のH.P.に記されていながら、「関与なし」なのである。
つまり、法的には、なくても問題ない。
「慣例」である。
(ただし、指導要録は教育委員会の定めた様式で作成する必要がある。)
要は、法的根拠がないとはいえ、家庭の理解や協力を求めるのが存在理由である。
「子どもを励ます」というのは、正当な気がするので誰も反論しないだけで、実は時代の流れにおける後付けの理由である。
あくまで、保護者向けである。
個人的には、もう、これは、なくてもいい気がする。
子どもも保護者も、評価されるのが、本当に嬉しいのだろうか。
(道徳の記述評価が嬉しいのか、役に立つのかは、さらに疑問である。)
「知りたい」というのはわからないでもないが、実際、保護者が知ってどうこうできるものでもない。
現場での実感である。
「正しい評価」の弊害の面も考える必要がある。
例えば私は、当時相対評価だから仕方ないが「C」をくらった教科がいくつかある。
一生懸命やっての「C」である。
もちろん、嫌いになったし、今でもそれらの教科は不得意だと思い込んでいる面がある。
一方で、以前紹介したが、5段階で「音楽1」を付けられた子どもが、世界的な音楽家になることもある。
別に1だから発奮した訳ではなく、評価した側のミスである。
評価者の「見る目」の問題である。
通知表は、何のためにあるのか。
学校の「当たり前」を見直すべきものの一つである。
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