アクティブ・ラーニングの主体的と対話的と深い学びについて。
主体的という点において、自分の意見をもてることは大切である。
しかし、これを「自己主張をして、意見を通す」子どもにしてしまったら、対話的でなくなる。
また「積極的に手を挙げる」姿を無闇に求めると、これも違う方向へ行く。
発問に対して即座に手を挙げるようなら、考えが浅い証拠である。
(または、熟考しないでわかるような、下らない発問である。)
よく考える人間は、問いに対し即座には手を挙げない。
大人を考えればわかる。
ハイハイと手を挙げて自分の発言を聞いて欲しいと主張するのは、パフォーマンスが大切な仕事の場合である。
我々が目にするものであれば、それはひな壇上のお笑い芸人や国会議員ぐらいである。
教室での具体的手段の一つとして、ノートに書かせるというのがある。
「ノートは思考の作戦基地」とは、有田和正先生の言である。
熟思させるには良い手段だが、時間はかかる。
書くのを厭う子どもには、やや苦痛でもある。
それでも、熟考させることを重視するならとるべき手段である。
その求める姿は、大人になった時にどうはたらくか。
そういう視点で見ることが大切であると思っている。
2017年1月8日日曜日
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