12月10日にアップした、プレジデントオンラインの次の記事がある。
「上の子下の子の“格差”」を生む親の傾向
http://president.jp/articles/-/20850
タイトルが多少刺激的なのは、オンライン記事の宿命としてお許しいただき、内容を見ていただきたい。
子どもは、集団の中で自分をどのような位置付けに認識しているかで、成長が変わる。
まず家庭の中で自分が劣等感をもてば、それを外の社会にも適用する。
外の社会でも自分を位置付けし、そこに対応した振る舞いをする。
例を挙げると、校内でサッカーが一番上手いと言われている子どもがいるとする。
しかしこの子どもも、クラブチームでは最も下という認識をしていることはざらにある。
そうすると「自分はサッカーが下手」という認識(誤認)をもってしまうことがある。
どちらにおいても、実力的は同じなのだが、集団の位置付けへの認識の違いである。
要は、人間は位置付けする性質そのものからは逃げられない。
そこから自尊感情も発生する。
だとしたら、位置付けの認識の仕方を変えればいいのだが、これがなかなか自力では難しい。
そこで、家庭や学校で何をすべきか。
子どもの優れた面に光を当ててやることである。
テストで測れるような学力はわかりやすいが、それが全てではない。
授業を例にとると、よく発言する子どもは活発でいいと評価される。
しかし、人の話をよく聞ける子どもや、よく書く子ども、深く考えられる子どもも同様に評価されるべきである。
学級であれば、話をよく聞ける子ども、人を笑わせられる子ども、優しい子ども、色々である。
これは師の野口芳宏先生に教えていただいたことだが、人間は無限多面体であるという。
一人の人間が様々な面をもつ。
本人も気付かない面に光を当てて、子どもが「自分もなかなかだ」と思えれば最高である。
元筑波大附属小学校の名物教師、有田和正先生は、学級のすべての子どもを「〇〇名人」と認定していたという。
これこそ、集団の中で自分を良い位置付けにする手段の好例である。
これは、子どもに限らず、大人でも同様である。
大人だって、家庭や会社で、自分で気付かない面を認めてもらえたら、気恥ずかしいけど嬉しい。
そういうものを探そうとする視点を常にもっていきたい。
2017年1月17日火曜日
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