今回の記事は、ネットニュースに取り上げられたものである。
http://www.mag2.com/p/news/232955/2
公衆道徳の話。
人を助けることは大切。
道で倒れている人がいたらどうするか?
当然「助ける」と答える。
普通の答えである。
「急いでいるから放っておく」「どうしていいかわからないから助けない」
と子どもが答えたら、どう思うか。
親や教師なら「その考えを改めさせたい」と思う。
しかし、現状でそれはなかなか難しいのがわかった。
先週、実際その場面に出くわした。
私は現在、電車通勤である。
目的の駅についてホームに降りた。
すると、前方50mほど離れた別車両から人が降りて、うずくまるように倒れた。
大勢の人がいるが、誰も近寄らない。
歩きながらちらっとは見るが、脇を通り過ぎて行く。
「スルー」または「傍観」である。
その場まで行ってみると、倒れているのは二十代ぐらいの男性である。
苦しそうに荒く息をして、目をぎゅっとつぶっている。
車内は満員に近く、多くの人が車両の中から立って男性を見下ろしている。
先に降りた人も含め、誰も助けないのである。
お陰様で私が「いい人」の役をおおせつかった上にこうしてメルマガのネタにもなる訳である。
そういえば、銀座まるかんの創業者、齋藤一人さんが「歩道橋前で重い荷物を持ったおばあちゃん」を探し求めて数十年。
やっと見つけた瞬間に急いで声をかけてつかまえたという話があるが、あれと同じである。
人を助けて自分を役立てることは、赤ん坊すらもつ本能的欲求であり、「助けさせてもらった」こと自体が感謝&報酬である。
しかし、この「ラッキーな事態」に周りの誰も動かなかった。
多分、先に挙げたような「どうしていいかわからない」心理ではないかと思う。
気持ちとしては助けたい人も多いのではないかと思うが、実際動かない(動けない?)のである。
道徳は、心の学習であるが、最終的にそれが行動につながっていくから意味がある。
どんなにいい意見を言おうが書こうが、やらないのでは意味がない。
日本人なら、助けて当然であると思うのだが、自分のことを優先&周りの目を気にしすぎである。
自分を「お節介」「偽善者」と思われることをかなり嫌う。
しかし、それでは社会が冷たくなるばかりである。
私はわざわざここに書くぐらいの超偽善者なので、その場でその男性に話しかけ、駅員さんを呼んだ。
駅員さんも朝のラッシュ時で忙しいので、「そこにいてください」と頼まれた。
待つ間、男性に話を聞くと、私が常々やめようと呼びかけている、体調不良で無理矢理出勤しているパターンである。
それぞれ事情があるので断定はできないが、基本的に体調不良の時は自分と他人のためにも休むべきである。
5分も待つ内に駅の担当の方が来たので、引き渡してその場を離れた。
何を思ったかというと、これでは子どももこうなるだろうと思った次第である。
子どもは、常に大人の背中を見ている。
歩きスマホも交通違反も、子ども以前に大人が問題である。
公衆道徳や思いやりも然り。
学習指導要領の改訂や道徳の評価化や心の教育云々以前の問題である。
今回の件が「たまたま」であったならいい。
ただ、私は常々「その瞬間たまたまできないことは、必要な瞬間にもできない」と考えている。
避難訓練でふざけていて、本当の災害時に大丈夫なはずがないのである。
一事が万事である。
社会にいる大人を育てたのが学校教育だといわれたらぐうの音も出ない。
だから、道徳教育は真剣に考える必要がある。
ただ、それが口先のものでは全く効果がない。
学校で、クラスでできないことは、社会に出てもできないということである。
社会にいる大人がやらないことを、子どもがやるはずがない。
子どもは素直に全部真似するのである。
自主、協働。
助け合い・思いやり。
どれも格好良く、きれいな言葉だが、実行時は自分が泥をかぶる覚悟が必要である。
美辞麗句に終わらず、実行できる子どもを育てることを真剣に考えていきたい。
2017年1月29日日曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
教材研究という言葉が一般的である。 教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。 (まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。 以下同様。) 教材研究の前にすべきは、素材研究。 教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む...
-
前号の続き。 教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。 (そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。) 例の如く野口芳宏先生よりずばり。 「課題」は出されたもの。 「問題」は感じたもの。 つまり、教師から与えたものが「学習課題」。...
0 件のコメント:
コメントを投稿