前号の続き。
一人を粗末にしない、ということを具体的にどうするか。
例えば算数の授業。
ある子どもは1分で解けるが、ある子どもは自力で45分ねばっても解けないということは多々ある。
達成すべき学習進度がある以上、いつまでも解けない子どもに合わせている訳にもいかない。
ただそんな時、「この人は無理」となってしまったら、そこで終わりである。
そこを何とかするのが、わざわざ学校に集まって授業を受ける意味である。
早く解けた子どもが、自分の力を誇示するためでなく、本当にその仲間に「わからせたい」と願う時、チームは成長する。
学級担任ができるのは、「見捨てない」という信念を持つことと、そのシステムづくりである。
教え合うことができる環境づくりである。
心の中までは踏み込めないのだから、45分動かない子どもたちに怒鳴ってもぼやいても無駄である。
「きちんと着席」で「黒板を向いて」の状態を求めるのであれば、子どもが入る余地はなく、教師が教え込む他はない。
それは、仲間を無視して自分のことだけに集中させる手段である。
そうではなく、友だちに教えることができるシステムづくりが先。
班で向かい合って話し合える形。
席を立ち歩ける。
畳や丸テーブルのような、リラックスして教える場がある。
話は肯定的に聞くというような約束。
黙って聞くだけでなく、つぶやきやおしゃべりの容認も必要になる。
やがて、どんな環境やシステムかはお構いなしに、困っている仲間を助けるようになる。
行動より心が先、であって欲しいのだが、実際は心は後に来る方が多い。
よく運動や掃除などで「最初嫌だったけど、やっている内に楽しくなった」なども、やはりそうである。
だから、最初は嫌がったり面倒がったりしても、何とか工夫してやらせるというのが、学級担任の仕事である。
これら一連のことは、大人の社会でも当てはまる。
一人の客を粗末にする時。
一人の社員を粗末にする時。
その店なり会社なりの未来は覚束ない。
この理由は明白で、粗末にされた一人の人間だけでなく、構成員のすべてが「下がる」からである。
自分だけが大事で、人を差別したり粗末に扱う自分に、健全な自尊感情が育つはずがない。
それを見ている自分や流してしまう自分に、自尊感情が育つはずがない。
いいことは、陰でやってもいいことなのである。
「天知る知知る人ぞ知る」というが、その誰よりも間近で自分の目と脳が認識する。
本当の自分にだけは嘘をつけない。
自分は誰かの、何かの役に立っているという自尊感情の威力は、最強である。
逆もまた然りである。
誰かを助けて、感謝された時の自尊感情の高まりは、言葉にできない。
「どうでもいい相手」から、お互いが「大切な存在」になる。
要は、一人が鍵を握る。
チームの中で、しんどいのは誰か。
この仲間のしんどさに共感し、一緒に解決しようとしているか。
学級や学校はもちろん、すべてのチームの成長の分岐点は、ここに尽きる。
2017年1月20日金曜日
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