前号に続き、次の本から。
『喜びの種をまこう』
東井義雄 著 柏樹社
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(引用開始)
教育は、理屈ではありません。
「この子をみてください」といえるような子どもを育てることです。
(引用終了)
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研究発表や実践発表では、いくらでもいいことを言える。
「こんなにすごいことをしました」
「こんなすごい成果が出ました」
いくらでもいえる。
何なら、授業研などで公開する時だけいい格好もできる。
その時だけ違う姿を見せることもできる。
そんなものは、全部嘘とまでは言わないが、無意味である。
子どもの普段の姿が事実である。
その学校の子どもが、どうなっているかである。
道徳でどんな感想が書けるかではなく、どんな心根でどんな行動をしているかである。
「掃除をきちんとすると気持ちがいいです」などと感想を書いているのに、翌日さぼっているなんてことはざらにある。
子どもも大人と同様「口当たりのいい言葉」を述べられる。
「こう書いておけば相手が喜ぶだろう」ぐらい簡単に考えられる。
道徳の評価化が敬遠される所以である。
この点において、掃除はわかりやすい。
褒められるため、叱られないためにやっているのは、すぐわかる。
そこに理屈がなく、やるのだと決めて徹底的にやる子どもは、輝きが違う。
ここばかりは、いやでも見えてしまうものである。
可能であれば、研究発表会そのものより、掃除をしているところを見た方がその学校の子どもの育ちがわかる。
どんなにキレイゴトを並べても、たとえば掃除ができないようであれば、事実として子どもが育っていないと考える。
理論と実践の乖離である。
私も普段うまいことを言っているわりに、ここを見てがっかりすることがよくある。
その時は落ち込むが、ここに気付けることは収穫である。
結局、子どもの姿がすべてである。
これから先、色々と実践発表の機会を与えられているが、理屈や美談で語らないようにしたい。
教育実践で見栄をはろう、すごいと思ってもらおうと考えはじめたら、実践家としての教師人生は終わりである。
いつでも事実と実践で語ろうと思えば、生涯本物を貫くことも可能である。
師の野口芳宏先生の仰るように「本音・実感・我がハート」に背かないよう生きていきたい。
2017年1月27日金曜日
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