G.W.である。
外出もできずに残念なことだが、代わりに、当たり前を見直す時間を与えられている。
今まで「大変だ」と言っていたことから遠ざけられ、逆に「欲しい」と言っていたものが強制的に近寄ってくる。
欲しかったものでいえば、例えば自由な時間。
時間の使い方の裁量権である。
学級担任の本来の日常は、スケジュールががっちり決まっている。
朝の会から放課後まで、時間割が決まっており、自分の意思で選択できる時間はほとんどない。
それを「忙しい」「大変だ」と思う。
実際、考える間もなく過ぎ去るような、目まぐるしい日々である。
しかしそれが今、動画作成やテキスト作りなど、たくさんのタスクはあるものの、全て自分の時間管理下で進めることになる。
これは自営業の方にとっては当たり前のことかもしれない。
しかし、学校の教員にとっては慣れない、かなり特殊な事態である。
大変なものでいえば、例えば生徒指導。
したくてもできない。
まず目のまえに子どもがいないのである。
逆に、ネット上のやりとりや、目の届かないところでのトラブルという、余計に見えないところで問題が起きる。
ここへの対策を取ることは必要だが、大変でもできれば生身のリアルなやりとりがしたいものである。
この騒ぎで、期せずして飛び込んできたものがたくさんある。
例えば、在宅勤務を命じられると、時間だけでなく空間まで使い方に裁量権が出る。
つまり、自分で仕事場所の確保もしなくてはならないということである。
いつも無条件に与えられていた教室や職員室の有難みがわかる。
子どもたちの立場からすると、3月から4月いっぱいにかけて「自由」な時間が大量に確保された状況である。
「自由」としたのは、単に自由というには何かと制限があるためである。
約2か月である。
夏休みでもないのに、夢にまで見た長期休みである。
それで、休校続きの子どもが有意義に、幸せに過ごせていたか。
テレビやゲーム三昧で、某アニメキャラのようにゴロゴロする日々。
一方、才能を磨いている子どもは、磨いている。
裁量権が与えられるというのは、高度な知性を必要とする。
知性の有無で、この時間を宝にするかドブに捨てるかという雲泥の差が出る。
これは、子どもに限らず、大人も同じである。
また、大切なことに気付ける面もある。
よくよく考えれば、「睡眠欲」など、自然に生きていれば何の努力もなく確実に満たせる欲求のはずである。
(睡眠は脳の機能であり、欲求ですらないという学説もある。)
在宅勤務になって、逆に人間らしい生き方になった人も、少なくないのではないかと思う。
習い事や塾通いのぎゅぎゅうスケジュールで眠れなかった子どもたちが、健康な生活になったという面もあろうかと思う。
一方で、社会に出られない窮屈さも感じられる。
ずっと家にいるというのは、社会的な生物である人間にとって、やはり退屈なものである。
学校や職場の有り難みが改めて感じられる。
今まで「大変」と思っていたものが急に失われた気分はどうか。
今まで「欲しい」と思っていたものが突如手に入ったが、その味はどうか。
失われた当たり前の価値がわかり、欲しがっていたものが意外と扱いが難しいということに気付けた。
また、当たり前の中の要らないものも見えた。
このピンチは、当たり前を見直す大きなチャンスである。
2020年4月30日木曜日
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