最近読んだ本と、最近考えていたこととがリンクしたので書く。
次の本からの気付き。
『村を育てる学力』東井義雄著 明治図書
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-063041-9
教育界の古典的名著である。
(手に入れるなら今、復刊直後のチャンスである。
普段だと、中古で1冊5000円は下らない。)
この本の中に、次のような記述がある。
あるご家庭で、我が子が使った教科書を、近所の下の年齢の子にあげたいと言った。
それをとても嬉しく思ったということをその子の母が次のような詩にしたのである。
詩の一部を抜粋して引用し、紹介する。
=================
(引用開始)
おとなは、
自分や自分のこどものことだけしか考えていないのに
こどもは
友だちのことまで考えていると思うと
はずかしいやらうれしいやらで
(引用終了)
==================
ちなみに、教科書は今では当たり前のように無償で供給されている。
これは「義務教育諸学校の教科用図書の無償に関する法律」で定められているためである。
文部科学省のH.P.によると、無償化されてからまだ40年も経過していないようである。
(参考 文部科学省H.P.)
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/gaiyou/990301m.htm
この当時は違ったということである。
全体として、貧しい村なのである。
そして、そんな貴重な教科書を、我が子が他人にあげるという。
母は「うれし涙をにじませていた」というほどに嬉しかったという。
母子ともに、素晴らしい心である。
しかしながら、話はこれで終わらない。
この話には、曰く「書かざれる涙の後半」があったのである。
ここに、その家のおじいさんの鶴の一声が入る。
「うちのぜにで買うた本、人に貸さいでもええ。」
これである。
このたった一言で、この素晴らしい教育の機会は闇の中に葬られた。
まだ命を燃やせる機会のあったはずの教科書も、永遠に眠ったままである。
東井義雄はこの老害的言動を「我利我利主義」と批判している。
そして「これこそ、学校教育の壁でもあるのだ。」とも述べている。
このような経験が「村を育てる学力」といったものを考えずにおられなかった理由の一つだという。
要は、利己主義が結局集団全体をも殺すということである。
我利我利主義は、隣人にも集団感染し、最終的に自分自身の身をも食い尽くす。
ウイルスと同じである。
学校教育は、この時代から変わっているだろうか。
相変わらず、競争ばかりを煽り、点数や賞賛を追って、他人に勝つことを教えていないか。
それが、自分と家族さえよければいいという、利己的な人間を生み出してきていないか。
学校教育が変わらない限り、世の中の我利我利主義も変わらないのである。
このおじいさんの考え方も、学校教育を受けてきた一つの結果である。
ウイルス騒ぎが収まらない。
感染防止の大切な考え方は
「うつされないようにする行動」以上に「うつさないようにする行動」だそうである。
全員が「自分が感染しているかもしれない」という前提で行動をすることで、感染拡大防止につながるという。
そう考えることで、必然的に手洗いをしたり、換気を気にしたり、余計な人混みにでかけたり接触したりしなくなる。
つまり、自分さえよければいいという我利我利主義ではなく、常に他者視点、利他の視点で考えよということである。
(一方で、マスクの使用については、その効果や使い方に疑問符が出ている面もある。
何事も節度である。)
ウィルスによる分断の力は大きい。
当たり前のことが、当たり前でなくなっている。
しかしながら、これは当たり前だと思ってきたことの価値や恩恵を見直すチャンスでもある。
学校、学級という集団はどうあるべきか。
教育では、我利我利主義ではなく、自分を本当に生かせる利他の精神をこそ教えていきたい。
2020年4月24日金曜日
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