「武士道に学ぶ子育て」シリーズ。
今回は、中でも特に一番心に響いた話。
講師の石川先生は、武家の娘として、お手伝いをかなり小さい時からさせられたという。
これは、水戸の松平家も同じだという。
雑巾がけ一つにも、怖い教育係がついている。
子どもも生活の中で「労働力」として加算されるのである。
これは、自分の必要感へつながる。
言葉でなく、活動を通じて実感することができる。
「あなたはかけがえのないもの」ということを言うよりもわかるという。
同じく、子どもに、自分たちの使ったものをきちっと片づけさせる、きれいにさせることは大事である。
良いことは、教えてすぐに実践させる。
ちなみに、「~させる」という言葉は好きではないが、最初の一歩はやはり「~させる」である。
いきなり主体的に行うようにはならない。
(それができれば一番楽ではある。)
「言われたらすぐできる」ができるようになると、次はレベルアップを要求する。
母親にはガミガミ言われなかったという。
一方で、静かに「もうわかるでしょ・・・」と言われる恐ろしさがあったという。
例えば「新聞を郵便受けに取りにいく」というような簡単な仕事も、最初は言われて行っていた。
最初の頃は毎日
「夕刊とってちょうだい」
と言われ、
「はい!」
と返事してすぐに取りにいったという。
しかし数回やって、同じ時刻に言われるのを待っていると、ある日母親に
「・・・何やっているんですか」
と言われたという。
要は、もうわかるでしょう、ということである。
これが「主体的」の前のステップである「自主的」を求めるという段階である。
(好き嫌い関わらず、やるべきことだからやる、という段階である。
「主体的」は、やりたくてやる、周囲に止められてもやるという最高レベルである。)
この話には、学級経営に応用できるものがたくさん含まれている。
掃除や係について。
きちんと教えてやらせないというのは、子どもの成長を奪っているといえる。
そして「あなたがいないと困る」というメッセージになる。
また、子どもが教師にいつまでも言われてやっているようでは、話にならないということも同様。
やがて教師がいなくてもやっていける状態を目指し、指導していく。
「これまでの指導を必要としない人間にする」というのが目標である。
そして常に子どものレベルアップを求めるために、こちらの要望レベルは徐々に上げていく。
厳しさと優しさ、愛情。
これらは、共存するものだというのが、日々の実感である。
2020年4月12日日曜日
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