自信をもつということの本質的な大切さについて。
「子どもに自信をもたせよう」という。
実は、これが教育において最も大切なことである。
ただ、これが曲解されていることが結構ある。
「〇〇ができる」自体が自信をもたせることと考えると、ここを間違う。
それは、競争原理によって担保されるものであり、自信の一部でしかない。
ゼロサムゲーム、勝ち負けの世界である。
そこだけ見ると、優れた私と劣ったあなた、あるいはその逆という思考法になる。
何かの選抜になったとか、どこそこの有名校に入ったからすごいとかいう一般的かつ下衆な価値観の持ち主に育つ。
「私は〇〇ができる」は大切なのだが、それはあくまで社会に貢献する力だからこそ、社会的に価値があるのである。
どんなに速く走れても、どんなに英語が堪能でも、どんなにピアノが得意でも、それが社会にとって何の役に立つのかである。
社会の役に立たないのならば、それは大好きなゲームの中におけるレベルアップやクリアと変わらない。
自己満足するし楽しいし嬉しいけど、それだけのものである。
完全に趣味の世界である。(それはそれで、自己の内部においての価値はある。)
「私は〇〇ができる」をそこからどう導くかが、自信をもたせる教育の本質である。
それを生かして、人を喜ばせることができる場にもっていく。
極端な話、ゲームが得意というようなことだって、その攻略法を公開すれば、同じゲームをする他の人のためになって感謝される。
今では、YouTubeで動画をアップすることもできる。
それで誰かが元気づけられたり、勇気づけられたりするのであれば、社会的な価値があるといえる。
(逆のものも多いのは、悩ましいところである。)
「私は○○ができる」は同時に、「私は△△ができない」を明白にする。
つまり、「私には△△ができるあの人が必要」と自覚できる。
職能的に言えば、建築家と農家とコンピュータープログラマーは、一人の人間がやれることではない。
無理をすればやれるかもしれないが、専門家が3人別にいて、互いの職能を提供した方が圧倒的に効率も質も良い。
これが、役割分担がなされる「社会」の形成原理そのものである。
(教師はこの辺りで失敗しがちである。何でも屋を求められる故に、線引き、外注が苦手である。)
つまり、自信をつけるとは、相互扶助、個性尊重の精神を養うことにつながる。
そして「〇〇ができる」は、技能そのものとも限らない。
例えば「あなたがいると何かふわっとした気分になる」「何か元気になる」というような存在感の人がいる。
もう、この存在感自体が価値である。
これは、自覚さえできれば、最も根本的で強力な「絶対折れない自信」になる。
ちなみに、心理学の世界では、これら2種類の自信には別々の名前がついている。
「〇〇ができる」の方は、「セルフエフィカシー」といって、「自己効力感」というように訳される。
存在に価値があると感じられる方は「セルフエスティーム」といって「自尊感情」や「自己肯定感」というように訳される。
どちらも大切である。
社会的には、セルフエフィカシーが高ければ、重宝される。
一方で、セルフエスティームが高ければ、自分自身に優しくなるので、人にも優しくできる。
どちらも、社会で生きていく上で必要ということになる。
では、現在の教育において、どちらが足りていないか。
これは、やはりセルフエスティームの方である。
何ができるとかではなく、あなたの存在自体に価値がある、と伝える方に注力すべきである。
これは、自然には身に付かない。
幼い時は天真爛漫なので無邪気に信じているのだが、成長の過程でどんどん失われる。
とにかくたくさん競争させ続ければ、勝てば官軍負ければ賊軍の原理が働く。
セルフエフィカシーの方は、勝てば一時的に上昇し、負ければ当然これが下降する。
セルフエスティームの方はというと、どちらにせよどんどん下降する。
「勝たない自分には価値がない」ということになり、精神的に常に危険に晒された状態になるからである。
勝ったり成功したりすれば褒める、負けたり失敗したりすれば叱る、ということを繰り返せば、これが加速する。
さらに「あなたにできるわけないでしょ」の一言で、両方の自信が地の底まで失われていく。
本当に自信のある子どもを育てている親は、やり方が違うのである。
幼い頃から「あなたは価値がある」と同時に「あの子も価値がある」と教育していく。
だから、我が子と同じクラスの他の子どものことも、尊重している。
当然、子どももそういう思考法になる。
そんな中で他者と競争をすれば、勝っても負けても相手へのリスペクトの気持ちをもつ。(武道の本質である。)
自信をもちつつ、他人を思いやる子どもに自然になってしまう。
これは止められない。
さらに「親である私にも価値がある」ということを、背中でも見せていく。
そこに、親子という立場の上下はあれど、人間としての上下関係がないのである。
尊大にも卑下にもしない。
親から子に対して、リスペクトの精神がある。
(子が親に対してそうなるのには、やや時間がかかる。幼いからである。
特に中学などの反抗期には、一旦諦めてスルーである。)
つまりは、子どもに自信を持たせる教育には、大人の側が本物の自信をもつという前提が必要である。
その時に必要な自信は、セルフエフィカシーよりも、むしろセルフエスティームの方である。
自信のある親や教師は、どういう姿、行動をとるべきか。
混乱期の今こそ、自信のある背中を見せて生きていきたい。
2020年4月17日金曜日
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