学ぶことと実践することの断絶について。
今、たくさんの本を読んで勉強している人もいるかと思う。
特に今年、初めての担任や新しい学年をもつという人は、不安である。
だから、本をまず読むのが入口として常套手段である。
ただ、この本で読んだ知識を、実際に使うとなると、色々とうまくいかないこともある。
読んでよく知っているはずのに、できないということがよくある。
これは、知識の「消化」という過程を経ていないためである。
よく「読んだのですが、まだ消化不良で」という言葉を使うが、正にそれである。
知識というのは材料に過ぎない。
それを分解して再構築して、初めて自分用のものになる。
消化から吸収の過程である。
人体の仕組みと同じである。
食べ物の消化吸収に例えて説明する。
例えば「コラーゲン入り」と書いてあるグミなりゼリーなり健康食品なりを食べたとする。
何か身体にいい気がする。
お肌がプルプルになる気がする。
(そして、「身体にいい」という名目で、どんなに食べても何だかカロリーが相殺される気がする。)
しかし、冷静に考えると、そんな訳はない。
コラーゲン入りのグミのコラーゲンだけがそのままポンと体の一部になる訳ではない。
食べたものは、全て胃で消化されて、全く別の原料になってから身体の隅々へ行き渡る。
細胞となって人体の一部として入れ替わるまでには、更に長い時間を要する。
だから、同じ「コラーゲン」という物質が入っている食品であっても、どのような消化吸収の過程を経るものなのかで、効果は全く異なる。
知識も同様で、そのままでは自分のものとしては使えない。
消化吸収するには、使ってみることである。
やがて、その知識や技術はその人のもつ「技能」となり、文字通り血肉化する。
歩くように、呼吸するように、意識しないでも使いこなせるようになる。
また、知識自体の質も大切である。
先のコラーゲン同様、名前が同じでも品質が全く異なる。
本に書いてある知識や技術で言うなら、どのような根本的思想の元で語られたものなのかということが重要である。
例えば「人を騙す」「操作する」という根本思想のものが、子どもへの教育に相応しいはずがない。
それが血肉化した時、どんな自分になってしまうかということである。
逆にいえば、どんなに元が良いものであっても、読んだ本人の消化吸収の仕方次第といえる。
知識は、変化してどんなものにもなり得る。
知識を生かすも殺すも、本人次第である。
「ノウハウコレクター」と言われてしまう場合、この消化吸収ができていない。
知識だけが膨らんで、自分では使いこなせない。
更に、知識が増えるほど、失敗が怖くなるから、余計にできないという悪循環に陥る。
材料ばかり集めて放っておいても、在庫過多である。
早く調理して食べて自分の栄養にしてしまう方が得策である。
じゃあ本を読まない方がいいのかというと、とんでもない。
十分な材料がなければ、料理することも食べることもできない。
まずは材料を集めるところからである。
あることに熟達していると言われるレベルの人は、長い年月をかけてこの消化吸収の過程を繰り返してきている。
だから、もうどんな材料でも自分なりに消化吸収する技術がある。
変幻自在なのである。
まずは知識を得て蓄えること。
次にそれを技術として使うこと。
使い続ければ、やがて技能になる。
今、関東は桜が満開である。
桜をはじめとする春の花は、厳しい冬を越えて蓄えておいた力を、爆発させるように咲く。
つまりは、花を求めるよりずっと先に、地道に根を広く深く張っていくことが大切なのである。
次年度も、全国たくさんの教室で笑顔の花が開くことを願う。
2020年4月22日水曜日
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