質以前の量、数の大切さについて。
自分の名前で検索をかけてみて、気付いた。
もう、記事が拾いきれないほどになっている。
自分でも何を書いたか覚えていないほどになってきた。
色々なコメントがついて何かと盛り上がっているものもある。
もはや手を離れすぎて、私の記事ではなくなっているものもある。
中には、良質なものもあるし、そうでないものもある。
たくさん読まれているのがいいかものというと、そうでもない。
ただ「キャッチー」なコピーが後付けされたものの方が読まれる傾向があるのは間違いない。
つまり、本質的な価値と広がりは必ずしも一致していない。
しかし、市場の価値は市場原理で決まるので、本人の願いとは一致しない。
「自分が最も言いたいこと」が書いてある記事よりも、そうでないものの方が認められているというのが実情である。
ただ読み返すと、言いたいことを結構言っている。
何年前の記事を読んでみても、今もそうだと思う。
軸自体は全く変わっていないのである。
常に「根本・本質・原点」を考えよという師の教えに従っているお蔭様である。
そして、同じようなことをかなり繰り返し書いている。
これが大切である。
同じことを、手を変え品を変え、何度でも言う。
そうしないと、伝わらないのである。
今年また、新しい本を書く。
書くのだが、書いている本質は、今まで出した他の記事や本と同じである。
例えばクリーンヒットした『切り返しの技術』。
(韓国語版が刊行予定である。書いた本人が読めないのが残念無念である。)
これの根本の思想は「教師自身の在り方が全て」。
これは最初に出した『やる気スイッチ』の根本思想と同じである。
また一番新しい『お年頃の高学年に効く!』は、切り返しの技術の高学年特化版である。
教育の成功原則の根本は「子どもの成長を第一に願う」という一点である。
『「捨てる」仕事術』も、書いてあることの要は仕事の能率化が子どもの成長につながるという一点のみで、やはり全く同じである。
質も欲しいが、先に欲しいのは圧倒的に量である。
どうせ万人に伝わるように上手くなんて書けないのである。
自分では下手くそだと思った文章が、意外にもある人にはストンと入ることもある。
わからないものである。
だから、下手でも書く。
実は量をこなす中で、質が高まるという面が大きい。
データが多いほど、共通項がはっきりしてくる。
本質の輪郭がはっきりと見えてくる。
まずは、質より量。
上手いやり方を求めてコロコロ変えるより、まずそれをたくさんやってみる。
量を集めてこそ、共通項である本質も見えてくると思う次第である。
2020年2月29日土曜日
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