風邪や病気の予防の「マスク」について考察と気付き。
一般的なマスクには、インフルエンザ等の予防効果はないという説がある。
ウィルスが小さすぎてマスクのフィルターを通ってしまうからとのことである。
ただし、せきやくしゃみによる飛散を防ぐ効果があるとのこと。
どれも、自分の目で見たことではないので、真偽は定かではない。
しかしながら、「周りへの配慮」という視点からすると、マスクは意味がある。
特に、マスクに信頼を置いて用いている人に対する時には、かなりの意味がある。
「効果があるかないか」だけが問題なのではない。
「相手がどう思うか」という面を併せもつ。
逆にいえば、「風邪でもないのにマスクをしている」ということで、不快に思う相手もいるかもしれない。
自分を「保菌者」扱いしているように思う人もいるかもしれないということである。
つまり、他人視点である。
これは、社会的にはとても大切なことである。
無人島に暮らすならどうでもいいことだが、社会には他人がいる。
人と共に暮らすからこそ「人間」であり「社会」だといえる。
余談だが、公共の場でマスクをしていてもOKな国は少ない。
多くは、顔を隠している危険人物や、重病人とみなされる。
つまり、文化によって、マスクを付けることが「マナー」になったり「マナー違反」になったりする。
そうなると、もはや本来の機能である病気の予防とは別の視点である。
ファッションにも似たことがいえる。
自分がしたい恰好をするのはいい。
ただ、楽だからと寝巻のままで外をうろうろするのは、公共のマナーに反する。
つまり、それを不快に思う人がいるということである。
高級レストランでドレスコードがあるのは、そういう理由である。
ジーンズはあくまで作業着発祥であり、どんなにおしゃれなものでも「ダーティー」と見なされる。
つまりは、社会の基本は他人視点なのである。
自分がしたいことをしていいのは、自分のプライベートな空間内だけである。
公共の場では、迷惑をかけてまで自分のしたいようにしていい道理はない。
その他のマナーも全て同じである。
学校の廊下は、走ってはいけない。
「危険だから」である。
では、「自分は滅多に転ばないし、完璧に避けるから大丈夫。」という人だったらどうか。
ワールドクラスのサッカー選手などは、かなり俊敏である。
この人なら、危険じゃないから走っても大丈夫か。
答えは当然「NO」である。
まず単純に、いくら避けてくれるとわかっていても、すごいスピードで走ってきたら怖い。
そして、自分をはじめみんな守っているのに、平気で破っている人がいるというのは、大変に「不快」である。
つまり、マナーとは、周りを不快にしないことである。
それさえ守れていれば、マナーとしてはOKなのである。
そう考えると、マスク問題は、なかなかに複雑なところである。
2020年2月15日土曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
教材研究という言葉が一般的である。 教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。 (まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。 以下同様。) 教材研究の前にすべきは、素材研究。 教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む...
-
前号の続き。 教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。 (そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。) 例の如く野口芳宏先生よりずばり。 「課題」は出されたもの。 「問題」は感じたもの。 つまり、教師から与えたものが「学習課題」。...
0 件のコメント:
コメントを投稿