言葉について。
学校やその他の場で、誤用と思われる言葉がまかり通っているものは、かなりある。
例えば、授業の開始や終わりに「号令」をかける。
日本においては、どこの教室でも見られる一般的なことである。
学校文化における「暗黙の了解」の一つである。
「号令」の意味を検索して調べる。
次のように出る。
ごうれい【号令】
1.《名・ス自》支配者や指揮者が、統率する者に命令・指図(さしず)をすること。
2.《名》指揮者が、一定の型に従って発する、ある動作をさせるための言葉。「─を掛ける」
「命令」として用いるものである。
あるいは、ある動作を「させる」ためのものである。
今の学校教育の目指す方向からすると、これは逆行しているようである。
また、そもそも子どもは授業の支配者でも指揮者でもないので、日直等が「号令」をかけるのもおかしな話である。
授業の開始や終わりにするとしたら、「礼」が妥当なのではないかと考える。
「これから一緒に学びましょう」という、相手や場、全てへの礼である。
授業前の「号令」に関してもう一ついうと、座った姿勢のまま「気を付け」という場合も、言葉がおかしい。
気を付けは、直立して行う動作を指す。
椅子に座ったままではできない動きである。
私は師に「言葉に敏感になれ」と教えられてきた。
その言葉が本当に適切なのか、吟味せよということである。
(ちなみに俳句も嗜んでいる先生で、言葉の吟味は作句の基本である。)
例えば決意表明等で「〇〇しようと思います」などと言うと
「思うだけか。やらないのか。」
と詰められる。
言葉の使い方が、あやふやなのである。
こういうことは、結構ある。
知らないが故の失礼ということもある。
例えばよくある「参考になりました。」は、目上の人には使えない。
言葉を知っている相手にとっては、実は失礼に当たる。
それは自分の考えの「参考程度」「付け足し」ということである。
もちろん、言った本人にそんなつもりがないことは、言われた側は百も承知である。
だから、悪気がないからこそ、「どこかで伝えないと」とは思いつつも、なかなか言えないというのが現実である。
(大抵、「参考になりました。」と言ってくる人は、いい人である。)
子どもにかける言葉も、本当にそれでよいのか、時に振り返る必要があるように思う。
2020年2月21日金曜日
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