前号の続き。
競争の不毛な教育から、どう抜けるか。
とにかく「日常が全て」がある。
だから、単に打ち上げ花火的な研究授業などには、実はあまり興味がない。
(その日だけの「貼りもの」だらけの授業は無意味である。)
それよりも、授業を公開するよりずっと前の、日常からの育ちの方に興味がある。
そこを含めて見れば、研究授業の意義も変わってくると思う。
つまり、どういう教育環境を日常的に作っているかである。
ごく些細な例を挙げる。
例えば、給食の「おかわり」の場面である。
私は自学級で、長らく給食のおかわりの仕方については、「じゃんけん」を基本にしてきた。
それを今年度は、やめてみた。
(給食システム自体が、昨年度から大きく変わっているのは、以前お伝えした通りである。)
↓参考記事URL:教師の寺子屋「選択できる子どもを育てる」
https://hide-m-hyde.blogspot.com/2019/03/blog-post_23.html
もし1つだけ余っている牛乳に、複数の子どもがおかわりを希望した時どうするか。
色々な手段がある。
早い者勝ち。
じゃんけん。
くじ引き。
何かしらの優先順。
その他、様々にある。
しかしどれも「ゼロサムゲーム」であることは変わらない。
誰かが十分に得ることで、誰かは失う(手に入らない)という構造である。
ふりかえって、おかわりをする必要、必然性はあるのか。
これは、単なる「もっと」の欲求の充足である。
であるならば、「分ける」という選択肢がある。
これを「どうする?」などと投げ掛ける必要はない。
「こういう場合は、分けます」と決めてしまう。
食欲のような根源的な欲求に関しては、リーダーが制するというのが基本である。
(そうしないと、本能的に弱肉強食の原理が働く。人間から遠ざかる。)
牛乳パックを空けて、それぞれのパックに注ぐだけである。
量も、適当である。
分けた後に精密に比較することなどないのだから、大体同じであればよい。
それ以前に、そういう「せせこましい」ことを言わせないのも、教育である。
こういうことを日常の「当たり前」にしておく。
これが、給食以外にも適用されるようになる。
「どうやって分けようか?」
以前AC JAPANの広告であったが、割り算は、思いやり算である。
日常で、競争原理を持ち込まない。
教育における不毛な競争を、日常から排していく姿勢が大切である。
2020年2月10日月曜日
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