学校には「べき・ねば」が多い、ということについては、これまでも再三述べてきた。
考え方が硬直してベキベキだったり、しつこくてネバネバしている類のものである。
この「べきねば」が、あらゆる苦しみ・問題の根源になっている可能性がある。
例えば、子どもが席について座っていられない「問題」。
座っているべきという前提が、座らせねばならない、座っていないのはいけないという「問題」を生む。
自らわざわざ問題をこしらえ、生み出して、それに悩み苦しんでいるといえる。
まあ、言うなれば「ドM」である。
そもそも、子どもは黙ってじっと座っている生き物ではない。
嫌でも黙って座っていられる子どもが存在するのは、そうしないと「不利益を被る」と学習しているからである。
(ある意味、それも主体的な選択である。服従を選択する、というのはあり得る。自己防衛手段である。)
座る「べき・ねば」を捨てて、立ち歩いて動けるタイプの学習スタイルにすればいい話である。
近年は、社会人のセミナー等でもそのスタイルが普通にある。
例えば、食事中に立ち歩くのはマナー違反である。
好きなものばかりを選んで食べるのも、よろしくない。
しかし、立食パーティーというのもある。
立ち歩いても、好きなものだけ食べても、全く問題ない。
なぜなら、立食パーティーは、多くは「交流」が主たるねらいだからである。
学校は、何がねらいなのか。
どの国でも、その国にとってその時代に必要な方針に沿って学校教育がなされる。
例えば、戦時中。
規律正しく動き、上の命令に逆らわず、忠実に従える国民が大量に必要である。
戦闘においては、そこに命がかかっているからである。
列からはみ出すのも、行進が揃わないのも、返事が小さいのも、号令に従わないのも、全部×である。
特にこの時代において、運動会は富国強兵の一環の大切な行事である。
例えば、高度経済成長期以降。
「24時間働けますか。」に「もちろん、喜んで!」が大切な時代である。
作れば作るほど、売れた時代である。
決められた作業を正確に行い、働き続けられる人材が必要である。
そういう教育が必要であり、学校のテストでも決められた正解を素早く答える能力を求める。
今、令和という新たな時代を迎えようとしている。
この時代に必要な教育とは何なのか。
少なくとも、戦時中や戦後の高度経済成長期と同じではないはずである。
昭和、平成までの「べきねば」を捨てられるか。
いや、もっというと、学校教育においては、平成になっても昭和のままだったという部分がかなりある。
元号が変わるこの年度は、多くの人にとって変革へのチャレンジの一年になるはずである。
2019年5月31日金曜日
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