自分で、つくづく嫌になる性質がある。
どうやら、「待つ」のが苦手なようなのである。
子どもに何か教える。
さっと動ける、改善できると、安心する。
一方で、動かない、改善されないと、焦る。
焦るので、ますます手をいれる。
全然改善されない。
ますます焦り、苛立つ。
人生におけるほとんどの失敗は、このパターンに集約されている。
これは、教えるという行為に限らない。
溺れている時にもがいているのと同じである。
やればやるほど、悪い結果になる。
一旦波にのまれてしまったら「自然に浮くのを待つ」のが正解である。
花が咲かない、と嘆いているのも同じである。
花は、自然に、来るべき時がこないと、咲かない。
しかも、同じ時に植えた同じ種類の種や球根であっても一斉には咲かない。
早咲きも遅咲きもある。
これを「揃えたい」というエゴが働く。
なぜか。
都合が悪いからである。
誰に。
自分である。
たとえ植物でさえ、相手には、相手の都合がある。
子どもが、本当にやりたい、できるようになりたい、と願っているなら、手出しもある。
しかし、本当にそうか。
こちらの都合、大人の都合で求めていないか。
それは、もしかして、悪い方向に働くのではないか。
植物で考えると、遅いのには、生長促進剤である。
悪い虫には、農薬である。
それでも咲かないといって、焦ってあれこれ手を出す、口を出す。
不自然そのものである。
本当は、それぞれに育ちたい方向やペースがある。
個々に違うのに、学年や年齢なんて不自然な枠の中で揃うはずがない。
ヒノキのような大木もチューリップ何も、一緒くたに同じサイズのプランターに入れて育てようとしているのである。
子どもをそんな不自然な枠、システムに放り込んでいる以上、「大人にとっての不都合」が起きるのは当然である。
待つ。
気長に待つ。
これは、大人にとっての修行である。
子どもは、大人の自己実現の道具ではない。
例え幼児であっても、人格をもった一人の人間である。
当たり前すぎるが、私だけではなく、世にかなり見落とされている点ではないかと思い、書いた。
2019年5月3日金曜日
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