2019年5月3日金曜日

「待つ」の修行

自分で、つくづく嫌になる性質がある。
どうやら、「待つ」のが苦手なようなのである。

子どもに何か教える。
さっと動ける、改善できると、安心する。

一方で、動かない、改善されないと、焦る。
焦るので、ますます手をいれる。
全然改善されない。
ますます焦り、苛立つ。

人生におけるほとんどの失敗は、このパターンに集約されている。
これは、教えるという行為に限らない。

溺れている時にもがいているのと同じである。
やればやるほど、悪い結果になる。
一旦波にのまれてしまったら「自然に浮くのを待つ」のが正解である。

花が咲かない、と嘆いているのも同じである。
花は、自然に、来るべき時がこないと、咲かない。
しかも、同じ時に植えた同じ種類の種や球根であっても一斉には咲かない。
早咲きも遅咲きもある。

これを「揃えたい」というエゴが働く。
なぜか。
都合が悪いからである。
誰に。
自分である。
たとえ植物でさえ、相手には、相手の都合がある。

子どもが、本当にやりたい、できるようになりたい、と願っているなら、手出しもある。
しかし、本当にそうか。
こちらの都合、大人の都合で求めていないか。
それは、もしかして、悪い方向に働くのではないか。

植物で考えると、遅いのには、生長促進剤である。
悪い虫には、農薬である。
それでも咲かないといって、焦ってあれこれ手を出す、口を出す。
不自然そのものである。

本当は、それぞれに育ちたい方向やペースがある。
個々に違うのに、学年や年齢なんて不自然な枠の中で揃うはずがない。
ヒノキのような大木もチューリップ何も、一緒くたに同じサイズのプランターに入れて育てようとしているのである。
子どもをそんな不自然な枠、システムに放り込んでいる以上、「大人にとっての不都合」が起きるのは当然である。

待つ。
気長に待つ。
これは、大人にとっての修行である。

子どもは、大人の自己実現の道具ではない。
例え幼児であっても、人格をもった一人の人間である。

当たり前すぎるが、私だけではなく、世にかなり見落とされている点ではないかと思い、書いた。

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