前号の続き。
8の字跳びが苦手な子どもへの指導をどうするか。
当たり前だが、集団には跳ぶのが苦手な子どもが含まれる。
いや、苦手な子どもが生まれる、といった方が正しい。
なぜかというと、回数が上がるにつれて、それぞれのレベルで「ついていけない」という事態が生じるからである。
最初は苦手だと思っていた子どもが、練習を重ねるにしたがって克服して上手くなることもある。
一方で、最初の頃の、ゆっくり入って、止まって、ジャンプして、の時は出来たのに、レベルアップしてくるとできなくなる子どももいる。
さらにもう一方で、終始一貫、得意という子どもも、苦手という子どももいる。
これら能力と育ちが異なる個が集まってできた集団が学ぶ。
この点は、算数等の普段の学習と同じである。
何が必要か。
助け合いである。
サポート、励まし、課題解決である。
ただ算数の場合は、最終的には個人の問題で終わる。
集団跳びでは、それが集団の記録に反映する。
だから、どうしても気楽にはできないという短所と、いつも以上に必然的に努力を促すという長所がある。
具体的には、毎回の短いミーティングが肝になる。
跳んでみて、円座して話し合って、修正。
この繰り返しである。
基本はクラス会議と同じである。
全員が円になって平等な立場で、話し合う。
この時大切なのは、他人の批判をしないこと。
「〇〇さん、ここを直して」ではなく、
「ここが自分は困っている」
「ここをこうするために、私にこれができる」ということを互いに出し合う。
具体的な例を出すと、「縄にタイミングよく入れない」という困り感のある仲間がいたとする。
それに対して「〇〇さん、がんばって入って!」ではなく、
「縄に入るタイミングでみんなで声を出していきましょう。」
「私が後ろで、入るタイミングを教えます。」
「その時だけ縄の回し方を少しゆっくりにしてみます。」
といったことを発表する。
あくまで、自分のできることを伝える。
周りのために、自分のできることに全力を尽くす、という姿勢を学ぶ。
「他責」の姿勢を排して「自助努力」の姿勢にシフトしていくのがコツである。
担任が気合いを入れすぎていてはダメ。
一方で、放置していてもダメ。
話合いの方向修正が、担任の仕事になる。
それをしないと、うまくいかない時、話合いがどんどんネガティブに流れるからである。
あらゆるリーダーの仕事は、指針を示すことである。
昨年度の私の一年生の学級は、後日談がある。
やはり、大会当日でも、まだ跳ぶのがなかなかうまくならない子どもたちもいた。
そこまでバシバシ鍛えようとした訳ではないのだから、当たり前である。
今できることを全力でがんばればよいと、子どもたちも考えて臨んだ。
さて、大会が終わった。
その日の昼休みに「先生、8の字跳びやろう」と誘われた。
中に、かなり苦手だけど、がんばっていた子どももいる。
そうしたら、上手に入って跳べた。
次も、跳べた。
みんなで「やった!!」と大喜びである。
本人も、ニコニコである。
この子どもと、周りの子どもの性質がいいから、といえばそれまでかもしれない。
しかし、こういったことは、集団で跳んだ回数そのものよりも、よっぽど大切である。
ドラマは、困難やうまくいかないことの中にあり。
子どもの自助努力と周りの温かいサポートで、高い壁を乗り越える体験ができれば、大成功である。
2019年5月21日火曜日
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