前号の続き。
勉強が好きな子どもに育つにはどうするか。
「勉強しなさい」が最悪であることは述べた。
では、具体的にどうするのか。
環境を整えることである。
それは、分厚い数十冊の図鑑や、高価な実験器具を与えるとかいうことではない。
もっと自然なことである。
本人が好きなことを徹底的にさせる。
これに尽きるのではないかと思っている。
これは、多くの大人にとっては非常に怖いことである。
なぜなら、大人は「自分の好きなことをする」=「わがまま」「悪いこと」とみなしているからである。
つまり、好きなばかりをやっていると、子どもが自堕落でダメになるのではないかと危惧するからである。
「好きなことばっかりやってたらダメ」という言葉に集約される。
全てのことは、勉強できるのだから、
「好きなことを勉強できる」=「勉強が好き」になるのは至極当然である。
逆もまた鉄板法則なのだが、そっちを進んでとっている結果、勉強嫌いの子どもが世に溢れているように思われる。
大人ができるのは、そのための、環境づくり。
好きなことを発見できる、触れさせる機会の提供ぐらいしかできない。
これには、色々試すしかない。
どこかに連れ出したり、何かに触れさせたりする機会を多く設けるしかない。
子どもによって、ヒットするポイントが全く違う。
そこで次が「超」重要ポイントにして、ほとんどの悩みの根本的原因である。
それは「親の願うこと」と、「子どものヒットポイント・長所」が、ほぼ確実に一致しないということである。
この事実を受け容れないと、親子双方不幸になる。
食べ物の好みと同じで、自分の好むものを子どもが好むように仕向けることはできない。
嗜好性というのは、極めて個人的なものであり、規制やコントロールは不可能である。
(これは、性の多様性の問題にもつながる。許容できない人には、どうしても許容できないようである。)
「それもいいね・素敵だね」と言えるかどうか。
ここがポイントである。
保護者と長年面談をしていて、気付くことがある。
どうも、読書というと小難しい文学作品を読ませたがる。
本人の苦手な運動をさせたがり、スポーツの得意な○○さんみたいにさせたがる。
漫画もゲームも「ダメ」なものの部類。(またはスマホノベル等にも否定的。)
勉強ができれば安心、やがて「いい大学」「いい職場」にいけば安心と思っている。
友達のグループに入っていれば安心と思っている。
とにかく、自分の人生を基盤にした既成概念に凝り固まってしまうのである。
(教師も同様である。)
例えば大人から見たらゴミにしか見えないものも、子どもにとっては宝物である。
拾った「きれいな」石、形の変わった石が机の引き出しに溢れているのも、ある意味健全である。
それよりも、それを隠さないといけない状況を打破すべきである。
「隠す」ということは、それを周りが駄目とみなしている、そう認識しているからである。
周りが「それもいいね」と言ってくれれば、安心して自分らしくいられるのである。
子どもの興味のあることを、否定しない。
大人の「善」「こうあるべき」を押し付けない。
子どもの個性や嗜好性を尊重する。
これなくして、勉強が好きという子どもは育たないと考える次第である。
2019年5月9日木曜日
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