次の本を紹介する。
『子どもをのばすアドラーの言葉 子育ての勇気』
岸見一郎著 幻冬舎
https://www.gentosha.co.jp/book/b10347.html
『嫌われる勇気』の著者といえばわかる人が多いかもしれない。
子育ての本であるが、職場を含めた人間関係全般に広く使える本である。
特に、社員や部下の育成が必要な経営者や上司の立場にある方には、ためになる内容である。
この中の一文を引用する。
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(引用開始)
「あなたのためにいっている」というようなことを親はいったりしますが、
多くの場合、愛情という名に隠された支配でしかありません。
(引用終了)
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この一文だけでも、強烈である。
「愛情という名に隠された支配」。
これは、教師にも当てはまる。
「子どものため」という言葉が、あらゆることの免罪符になっていないか。
「あなたのため」という言葉を使って、行動を支配しようとしていないか。
そして「愛情という名の支配」が成功した結果、親はずっと面倒を見るはめになる。
支配されている以上、自分で決められないからである。
「親はどう思うか」という顔色をうかがうことが、行動の価値判断基準になるからである。
「主体的」「自立」とは真逆の方向に育つ。
例えば、漢字練習を全くやらない子どもがいるとする。
どうするか。
多くの心ある親や教師は、「やりなさい」という。
しかし、アドラー心理学の立場では、ほとんどの場合、これは間違った行動に分類される。
なぜならば、それは「子どもの課題」だからである。
大人は、自分の課題に首を突っ込んで欲しくない。
例えば家庭のことに、職場の上司からあれこれ指示を出されたらどうか。
あなたの身体の問題に、あれこれ言われたらどう思うか。
あるいは、あなたは問題があるから〇〇の勉強をしなさいと言われて、やる気が起きるか。
成人した人であっても、親に首をつっこまれることは多い。
例えば親から自分の結婚しようとする相手に対し、「この人はいい」「この人はダメ」とあれこれジャッジされたらどうか。
友人の方がまだ的確な見方をするかもしれないが、これも「参考」程度にすべきである。
そして、周りの指示に従って結婚した相手との生活が「最悪」だったらどう思うのか。
「私はこういったのに」と、恨みがましいことを言い出す可能性もある。
どれも、自分の課題に他人が首を突っ込んで、それを受け入れ、託してしまった結果である。
先の漢字の話に戻ると、勉強とは明確に子ども自身の課題である。
断じて、親の課題ではない。
もしそれも親の課題だとかいうなら、将来的に子どもを支配しようとしている可能性がある。
そして、一生勉強で面倒を見る覚悟がいる。
勉強は、学生時代だけでなく、死ぬまで一生続くものである。
この本の中では、このことについてさらに強く警告している。
勉強を親の課題にすり替えることで、子どもがより勉強しなくなるというのである。
つまり、口出しすることで、子どもにとって
「勉強ができない」=「親が悪い」or「教え方が悪い」
という、他人の課題になる。
そして、より勉強しなくなるという悪循環に陥る。
なぜか。
「勉強しない」ということで、「可能性の中」で生きることができるからだという。
この場合「あなたはやればできるのに」は、負の行動強化の言葉がけになる。
子どもは「やってもできない可能性」を潰す方向に行く。
つまり、勉強をずっとやらなければ、できない自分が証明されないのである。
行動しない方が「安全・安心」が保証される訳である。
失敗を恐れて行動しない、ということにもつながる。
失敗しない人間より、試行錯誤する人間になる方が大切である。
そこを学ぶには、自分でチャレンジするしかない。
何でも周りのせいにする人間では、どうにもしようがない。
他人の課題に首を突っ込まない。
親は「勉強しなさい」と一切言わない。
これは、教師も同じである。
教師の側の努力は、子どもに勉強を強要することではない。
勉強が楽しい、やりたいと思えるような環境を整え、授業をすることである。
これは、子どもに阿る(おもねる)のとは全く違う。
受動的な「楽しさ」をサービスして媚びるのとは全く違う。
新しいことを知る喜び、学ぶ喜びに触れさせることである。
自分を含めた誰もが「無知」であることに「ハッ」と気付かせることである。
もっと学びたい、もっと自分を磨いて役立てたいと、人間を謙虚にすることである。
勉強は、楽しい。
それを、腹の底から実感すること。
そうすれば「勉強しなさい」という言葉は出ない。
「もっと勉強させてほしい」と言ってくる日を求めるなら、一切こちらからは言わないことである。
これは、保険のトップセールスマンと同じである。
うちの保険に入りなさいなどと決して言わない。
お客さんの方から入らせてほしいとお願いされるという。
「売らないこと」が極意だと読んだことがあるのを思い出した。
ともあれ、そう言わないで勉強する子どもに育てたいと願うのが親である。
その手法が気になる方は、この本を一読することをおすすめする。
2019年5月7日火曜日
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