端午の節句、こどもの日である。
子どもの健やかな成長と幸せを願う日である。
そして「母に感謝する日」ということも明記されている。
今回は目先を変えて、この後者に着目する。
大人である自分自身の健やかな成長を願っているか、ということについて考える。
面白い言葉を知った。
「自己中心的利他」という。
ネットで調べると、書籍でも書かれているようである。
(なので、誰が最初に言い出した言葉かはよくわからない。)
平たく言うと、自分がやりたいことをして、周りの人に喜んでもらうということ。
相手のためというより、単に自分がやりたくてやっている、という状態である。
ただし、押しつけがましさはなし。
やって「あげてる」感もなし。
自然な、いわゆる「Win-Win」の関係である。
子どもに幸せになって欲しいと願う。
親でも教師でも、子どもに関わる誰もが願うことである。
子どもに成長して欲しいと願う。
やがて立派な大人になって欲しいと願う。
ところで、そう願う大人自身は、幸せか。
子どもは、言葉ではなく、背中を見て育つ。
幸せそうに生きている、働いている大人を見て、「大人って楽しそう!」と憧れをもつ。
教え子にも我が子にも「大人はいいよ~」と語っているか。
なぜなら、子どもの側は思考は自由だが、行動範囲は不自由極まりない。
親をはじめとした周りの大人の様々な状況に、そのほとんどを規定されるのである。
大人は、自分の「自由」に生きられる。
そんなことないと言われれても、そうである。
行動範囲や意思決定、お金の使い方の裁量の広さも、子どもとは全く違う。
それでも「不自由」だというなら、現状に対抗することもできる。
現状に甘んじて我慢するというのも、一つの選択である。
現状を打破すべく、敢えて困難を選ぶというのも選択である。
やりたい仕事も自分で選べるし、一見不自由だと思っていることもどれも選択の結果である。
子どもにも、それを示したい。
大人である自分が、自由に生きていることを示さない限り、子どもは子どものままでいたいと思うに違いない。
まず、自分が幸せになること。
自己犠牲もほどほどに。
大人自身も、健やかに成長をする。
健康に気遣う。
勉強もして、向上的変容を目指す。
子どもの幸せと成長を親は願う。
それならば、自分自身の幸せや成長をないがしろにしない。
何度か紹介している、山口県の「子育て四訓」を引用してしめる。
1.乳児はしっかり 肌を離すな
2.幼児は肌を離せ 手を離すな
3.少年は手を離せ 目を離すな
4.青年は目を離せ 心を離すな
要は、子どもの幸せを願うのも、発達に応じた距離感が大切である。
べったり「あなたのため」に尽くすのは、乳幼児まででいい。
自己中心的利他の精神で、子どもも大人も、ともに幸せに成長したい。
2019年5月5日日曜日
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