2019年5月17日金曜日

学校の「当たり前」は変えられるか

前号の、楽しい学校とは何かについてという話題と関連。
次の本を読んだ。

『学校の「当たり前」をやめた。
生徒も教師も変わる! 公立名門中学校長の改革』
工藤 勇一 著 時事通信社
https://bookpub.jiji.com/book/b383104.html

著者の校長先生は、いわゆる「民間校長」ではない。
宿題や定期テストの全廃や、固定担任制の廃止など、かなり大胆な改革をしている。
「何のために」という視点から、学校にはびこるあらゆる「当たり前」を見直している。

ただ派手なことをしようというのではない。
学校で学んだ子どもたちがより良い社会をつくる、という目的に絞っての改革である。

読んでいて、わくわくするし、胸がぐっと熱くなる本である。

しかし、セミナーと一緒である。
どんなに感動しようと、行動に移さないと変わらない。

そして、これを読んだだけでは、そう簡単には変わらない。
いや、変わろうとしない。

なぜか。

人間の本能は、変わらないことに努力をするようにできている。
これを「ホメオスタシス」(生体恒常性)という。
元の基準に常に戻ろうとする機能である。
生きる上で必要な機能である。

0度の極寒でも40度越えの外気にさらされても、体温が一定に保てる。
食べ物が足りなくても食べすぎても、血糖値を一定に保てる。
すべてホメオスタシスである。

これは提唱者のアメリカの生理学者 W.キャノンが著書に名付けた通り「人体の知恵」なのである。

あらゆることに対し、「基準値」の通りに元通りになろうとする。
考え方もそうだし、行動もそうである。
基準から外れたり、普段と違うと、気持ち悪く感じる。

それが個人の「習慣」であり、集団の「慣習」である。
習慣を変えるというのは、個人の革命である。
慣習を変えるというのは、集団の革命である。

これだけでも、慣習を変える方が圧倒的に難しいのがわかる。
習慣だって難しいのに、である。

しかし、宗教や人種が混ざっていても、どんどん変化できる集団もある。
色々理由はあるが、集団が「快適でない」レベルではなく「危険」レベルだからともいえる。
必要に迫られる訳である。

一方で、学校はどうか。
快適でないにしても、危険ではない。
つまり「変えなくても今とりあえず何とかやっていける」状態がほとんどである。
つまり、変えるのは、相当難しい。

教師レベルで考えてもわかる。
学級づくりを本やセミナー等で勉強し出したのはいつか、と問うと、新任3年目ぐらいまでが多い。

なぜか。
それぐらいの時期に、学級が荒れ果てて困ったからである。
脱出したいという強い願いがきっかけ、という人が多い。

逆に、十年ぐらい経つと、勉強しようというモチベーションが落ちる。
これまでのやり方で、何とか形が保てるからである。
下手に変えて、崩れる方がよっぽど怖くなる。

「ホメオってる」状態になる。
変われなくなる。

しかし、時代は変化している。
何十年も前に「正攻法」として通用していた方法が、根本的に間違っている可能性もある。

学校で、誰が変わるエネルギーをもっているのか。
一番若いのは誰か?

新卒の教師、と答えそうなところだが、惜しい。
これは、二番手である。
ナンバーワンはもちろん、子どもである。
子どもは、もっとこうしたい、という思いをもっている。

ここを引き出していくのが、すべての教師の仕事になる。
その意味で、若い教師というのは、改革の大きな推進力である。

これからの学校が変わっていくか。
それには、指導する教師の考え方自体に「革命」が必要である。

革命に必要なのは、志。
志をもって自らの「志事」にあたりたい。

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