鍵山教師塾での学び。
道徳を、3つに分けて考える。
最下層は、法律。
次が、躾。
最上層は、求道。
これら全てを合わせて、人として生きる道、「道徳」である。
法律すら守れないという状態は、基本的な欲求が充足されていない状態である。
逆に法律を守れる人とは、幼少時に親や目上の人の愛をよく与えられ、受け取れた者だけだという。
よって、法律を破っている人間に対しては、「道徳論」で説いても無駄だという。
例えば、ひどい生活をしていて、盗んでまで食べ物を欲する子どもたちに、道徳心が欠けいる訳ではないのは自明である。
あるいは、愛情不足の子どもが暴力行為に及んでしまうのも、道徳心の問題ではない。
根本は愛の不足であり、ここを理解して与えるしかない。
だから、もし学校の「有名人」を担任することになったら、無条件に愛を与える以外に方法はない。
教えて何とかなるなんて思わないことである。
拙著『切り返しの技術』でも書いたように、100回裏切られる前提と覚悟が必須である。
躾とは、社会性そのものである。
中国の「礼」である。
これは「おしつけ」でよい。
こちらも説教は無駄。
そういうものだと身に付けさせるべきものである。
例えば、その文化における独自の作法なぞは、「おしつけ」以外に知る由もない。
説教ではなく、しっかりと教える。
反復させ、型にする。
ちなみに、躾のなされていない部分は、本人の「悩み」として表出するという。
躾をされていないと悩みが増える、不幸になるということである。
そう考えると、躾は教育において必須である。
最上級の「求道」とは、高みを目指して生きる「道」のこと。
これこそが本物の道徳、徳の道である。
「道」とは正解がなく、常に続くものを指す。
書道でも武道でも同じである。
これらは、自分で究めていくもので、正解もゴールもない世界である。
よって、「型」を越えた時点から教えることが不可能な領域である。
また、口にして教えた時点で、もうそれが入らなくなるというので、要注意である。
では、最上級の道徳である求道を、どうやって教えるのか。
これは、背中で示すしかない。
むしろ、本人が勝手に選んで、勝手に真似されるものである。
よって、教えること自体が不可能と考えてよい。
自分を鍛える「修養」以外に道はないということである。
「道徳を教える」ということへの違和感が、すっきりと溶けた。
なるほど、道理で教えらないはずである。
この考えに則れば、教科書のある道徳科の担保できるのは、「法律」と「躾」までである。
あくまで捉え方の一つではあるが、自分の中ですっきりしたので、シェアしてみた。
2019年5月27日月曜日
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