2019年5月29日水曜日

守りに入ったら終わり

今年度最初のメルマガで書いた、大切だと思うことを一つ。

学級経営に限らずだが、実感していることがある。
それは、
「守りに入ったら、終わり。」
ということ。

昨年度、ぼちぼちやれたとする。
まあまあの成果が出たとする。
そうすると、やり方を変えにくくなる。
変えなければ危険がないからである。
そうすると、年を経るごとに、ずるずる後退する。

子どもは時代のスピードで成長するのに、同じでいい訳がない。
もう平成から令和へ時代が変わったというのに、下手すると、昭和のままである。
恐ろしいほどの「後退」である。

昨年度、失敗したと思うとする。
そうすると、攻めるのが怖くなる。
やり方を変えないとまた同じ轍を踏むのだが、怖くて変えられない。
代わりに、規制を厳しくしたり、言うべきことを言わずに黙ったりするようになる。
こうすると、また同じ失敗をする。
やはり、「後退」である。

自分を守りに入ったら、もうダメなのである。
特に学級経営では、子どもにおもねったら終わりである。
管理職や保護者に及び腰になっても、ダメ。

子どもにどうなって欲しいか。
主体的・対話的で、深い学びをして欲しいはずである。
これはかなり「攻め」の学び姿勢である。

だったら、こちらもそうでないといけない。
自分は及び腰で全く動かず、安全地帯から命令を出すような人の言うことを聞きたい訳がない。

どんな人が相手なら、人は掛け値なしに動くのか。
歴史上の教育者に学ぶのがいい。

歴史上の教育者といえば、吉田松陰。
命令をしない。
差別もしない。
教えないで教える。
言うべきことは言う。
優しくて厳しい。
ここに学んだ志士たちは、日本を動かす人物になっていった。
自身は死罪になっても、教育者としては、確実に「成功」である。

基本が「攻め」である。
攻めすぎて何度も捕まっているが、それも潔い。
「やむにやまれぬ大和魂」である。

自分の先生が攻めていると、教え子たちも真似したくなる。
多分、吉田松陰に教わっていたら、学ぶという行為も、主体以外に有りえなくなる。

「勉強は忍耐」とか「将来の受験のため」と心の奥底ででも思っているのなら、それは確実に子どもにも伝わる。
実につまらない学びである。
子どもが勉強嫌いになること必至である。

「嫌い」は、「怖い」とは違う。
子どもも大人も同じで、嫌悪感を抱くのは、人として尊敬できない、信用できない人物である。
「言ってることとやってることが違う」というのは、その点において致命的である。
いつも自分の立場の守りに入っている大人を見て、子どもの憧れや目標になれるはずがない。

今年度、何がしたいのか。
攻めの姿勢こそが我が身を助けることを肝に銘じて実践していきたい。

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