楽しい学校とは何か。
勘違いしやすいのが、テーマパークや高級旅館のような楽しさ。
サービスを受ける楽しさである。
全てが完璧にお膳立てされていて、魔法にかけられたような気分になる。
お姫様、王様気分になれる。
リラクゼーションやマッサージも方向性は同じである。
自分を労わるという点に価値があるが、学校教育のもつ役割とは違う。
これらの楽しさは、サービスする側にほぼ全てがかかっている。
生産者と消費者の関係である。
学校とは、子どもをサービスの受給者、単なる消費者にする場ではない。
よき消費者であると同時に、よき生産者になる場である。
意欲的・主体的に学ぶとは、生み出す側、提供する側の楽しさを学ぶことである。
子どもに、どんどん問題を出す。
子どもはそれを解く。
○か×かを判定してもらう。
もっと面白い問題を要望する。
これは子どもにとって楽しいのだが、常に受け身である。
本当は、自分がその側にも立てたら、もっと面白い。
自分で問題を作る、出す。
教える。
解き方を一緒に考える。
○や×をつける。
相手の喜ぶ顔を見る。
教師は、その一番おいしいところを、独り占めしている可能性を考える。
事実、大抵の教室の一番の「おしゃべり」で「でしゃばり」で「仕切りたがり」の「目立ちたがり」は、教師である。
(私自身も御多分に漏れないため、はっきりと言える。)
楽しい学校。
それには、野山や海のような学校を想像してみる。
材料も場も豊富にある。
しかし、何もやるべきことは用意されていない。
とりあえず火を起こすとして、そのための薪でも集めるか。
キノコや木の実、海の中の貝や魚をとるのもいい。
暇なら、ブランコでも作ろうか。
あまりに自由度が高すぎるなら、方向性の課題だけを与える。
「おいしい料理を作ろう」とか、「みんなで遊べるアスレチックを作ろう」とか。
実際に野山に行くのではない。
あくまで比喩である。
教室で、授業で、こんなことがやれたら素敵だと妄想してみる。
現実的かどうかは一旦脇におく。
子どもの本当にやりたいことを実現できる場になったら、学校は本当に楽しい場になるはずである。
勉強が、楽しい。
学校が、楽しい。
それには、学校が
「自分が自分らしく在ることができる場」
「役割をもって力を発揮できる場」
であることが大切である。
自分が学校に行く意味を見出せなくなったら、意欲が下がるのは当然である。
楽しい学校は、自分たちで作る。
大人も子どもも、同じ方向を向いていけたら、きっと実現できるのではいかと思う。
2019年5月15日水曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
教材研究という言葉が一般的である。 教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。 (まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。 以下同様。) 教材研究の前にすべきは、素材研究。 教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む...
-
前号の続き。 教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。 (そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。) 例の如く野口芳宏先生よりずばり。 「課題」は出されたもの。 「問題」は感じたもの。 つまり、教師から与えたものが「学習課題」。...
0 件のコメント:
コメントを投稿