2019年6月2日日曜日

雛鳥は親鳥に習って飛ぶ 

前号で、昭和や平成までの「べきねば」を捨てようということを書いた。
しかし、「そんなこといっても、捨てられない」という呟きがそこかしこから聞こえる。

それは、テレパシーでも超能力でもなくて、誰に聞いても同じ答えだからである。
一般の教諭はもちろん、かなりの権力のある、偉い立場にある方々に聞いても同じ答えが多く返ってくる。

「上が・・・」
「今までも・・・」
「それが当たり前」
「常識的に・・・」
「みんなそうだし・・・」
「わかるんだけど・・・」
「難しい」
「無理」
「時期尚早」
「様子を見てから・・・」
どの立場の人に聞いても、大体この類の答えである。

これを「同調圧力」という。
「みんなそろって」の精神である。
はみ出てはいけない。
どんなひどい目に遭うかわからない。
安全第一である。

しかしである。
籠の中の鳥は、自由といえるのか。
大空を羽ばたく力が本当はあるのに、飛べない。
安全かもしれないが、自由も挑戦も全くない。

ところで、子どもに対して、次のように言ったことはないだろうか。
「もっと自分から出て!」
「積極的に手を挙げて」
「やりたいことをやっていいんだよ」
「もっと自分の意見を言って」

そして、周囲に「うちのクラスの子どもは積極性もやる気もなくて」。
おいおい、と言いたくなる。
大人がそうなのだから、当たり前である。

子どもは大人の「鏡」である。
集団圧力に屈している大人に「習う」のである。

「習」という字の字義は
「雛鳥が翼を動かして飛び方をならう。」
である。(「新漢語林」より引用。)
そして習という字には「その通りにする」という意味がある。

雛鳥が自由に羽ばたけるようにならないとしたら、親鳥が羽ばく姿を見たことがないからである。
飛び方がわかる訳がない。

しかし一方で、野生の動物は、親がいなくてもそれらの動きができるようになるものも多い。
「本能」のなせる業である。

人の手が入ると、この本能が失われる。
動物園で生まれた動物を野生へ戻すのが難しいのと同じである。
余計な世話をし続けると、本能が死ぬ。

教育は、ある意味で本能を殺す作業である。
本能のコントロール方法を教えるのはとても意味があるが、必要な本能まで制御してしまっていないか。
例えば「みんなそろって」は、本能の姿ではない。
子どもは、みんな、個性的な存在である。
そして、私たちも、元子どもである。

何を恐れているのか。
ワクワクすることは、ドキドキするのである。
希望と不安は、セットである。
不安を抱くのは、うまくいくかもしれないという希望があるからこそである。
希望は不安という衣を纏って現れる。
不安の中身、本質は、希望である。

今年度、本当に自分がやりたいことは何なのか。
そのチャレンジする姿に、子どもも習うことがあるはずである。

0 件のコメント:

コメントを投稿

  • SEOブログパーツ
人気ブログランキングへ
ブログランキング

にほんブログ村ランキング