前号で、昭和や平成までの「べきねば」を捨てようということを書いた。
しかし、「そんなこといっても、捨てられない」という呟きがそこかしこから聞こえる。
それは、テレパシーでも超能力でもなくて、誰に聞いても同じ答えだからである。
一般の教諭はもちろん、かなりの権力のある、偉い立場にある方々に聞いても同じ答えが多く返ってくる。
「上が・・・」
「今までも・・・」
「それが当たり前」
「常識的に・・・」
「みんなそうだし・・・」
「わかるんだけど・・・」
「難しい」
「無理」
「時期尚早」
「様子を見てから・・・」
どの立場の人に聞いても、大体この類の答えである。
これを「同調圧力」という。
「みんなそろって」の精神である。
はみ出てはいけない。
どんなひどい目に遭うかわからない。
安全第一である。
しかしである。
籠の中の鳥は、自由といえるのか。
大空を羽ばたく力が本当はあるのに、飛べない。
安全かもしれないが、自由も挑戦も全くない。
ところで、子どもに対して、次のように言ったことはないだろうか。
「もっと自分から出て!」
「積極的に手を挙げて」
「やりたいことをやっていいんだよ」
「もっと自分の意見を言って」
そして、周囲に「うちのクラスの子どもは積極性もやる気もなくて」。
おいおい、と言いたくなる。
大人がそうなのだから、当たり前である。
子どもは大人の「鏡」である。
集団圧力に屈している大人に「習う」のである。
「習」という字の字義は
「雛鳥が翼を動かして飛び方をならう。」
である。(「新漢語林」より引用。)
そして習という字には「その通りにする」という意味がある。
雛鳥が自由に羽ばたけるようにならないとしたら、親鳥が羽ばく姿を見たことがないからである。
飛び方がわかる訳がない。
しかし一方で、野生の動物は、親がいなくてもそれらの動きができるようになるものも多い。
「本能」のなせる業である。
人の手が入ると、この本能が失われる。
動物園で生まれた動物を野生へ戻すのが難しいのと同じである。
余計な世話をし続けると、本能が死ぬ。
教育は、ある意味で本能を殺す作業である。
本能のコントロール方法を教えるのはとても意味があるが、必要な本能まで制御してしまっていないか。
例えば「みんなそろって」は、本能の姿ではない。
子どもは、みんな、個性的な存在である。
そして、私たちも、元子どもである。
何を恐れているのか。
ワクワクすることは、ドキドキするのである。
希望と不安は、セットである。
不安を抱くのは、うまくいくかもしれないという希望があるからこそである。
希望は不安という衣を纏って現れる。
不安の中身、本質は、希望である。
今年度、本当に自分がやりたいことは何なのか。
そのチャレンジする姿に、子どもも習うことがあるはずである。
2019年6月2日日曜日
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