2019年6月12日水曜日

アクティブラーニングの成立条件

大学の講義を受けての気付き。

大学では「学習者主体」のスタイルがとられている。
「アクティブラーニング」が大学の授業段階で実施されている訳である。
大変良いことだと思う。
例えば教育における現代的課題を提示されて
「これについて話合いなさい」
という授業。

これが成立する。
こういう話し合う授業は面白い。

しかし、これには前提が必要である。
学習者が、課題に対して、ある程度以上の知識や見解を備えていることである。

教育に関する知見は、全ての人がある程度もっているので、話合いが成立しやすい。
なぜなら、教育を受けたことがないという人がいないからである。
色んな立場で述べることが可能である。

しかし、例えば医学に関する知見は、誰しもがもっている訳ではない。
手術を執刀した経験など、ある訳がない。
だからいきなり「現代のがん治療における展望について議論しなさい」等といわれても、無理である。
新聞やニュースで知る程度の浅い知識で、その場の思いつきを話し合うしかない。
深まらない。
それなら、きちんと講義をしてもらったり本を読んだりして、知識を深める方が本質的に役立つ。

この辺りを理解しないで、いきなり子どもに課題を丸投げをしてしまうと、失敗する。
話合い中心の授業自体は楽しいのだが、往々にして深まらないことが多い。
それは、基礎的な知識の不足が原因である。
見解の狭さ故である。
(逆に知識がある故に見えない、という事態もある。)

算数の「筆算」の単元を例に考える。
まず「筆算」のやり方は、議論すべきところではない。
それを本当にまっさらな状態でやったとすると、固まる。
あるいは、不適切な様々な方法が出てしまう。
(今は大概、やり方自体を最初から知っている子どもが多数いるので、その子が説明してそれらしい終わり方になる。)

教科書に載っている筆算のやり方は、きちんと知識として教えるところである。
技能として習熟させるところである。
ここに議論の余地はない。
発展として桁が上がった時にどうするか、という段階なら有り得るが、ほどほどにしないと混乱する。

議論させるならば、もっと面白い課題である。
答えが一義的に定まらないようなものである。
筆算のやり方のように、最初から答えがはっきりしているなら、議論の余地はない。

道徳科の授業で本気で議論する姿を求めるなら、様々な見方ができるものにしないと「予定調和」になる。
「どうせみんな仲良くしましょうってことでしょ」と見透かされる授業では、本物の「演技者」を育ててしまう。
例えばロールプレイをするにしても、道徳的態度を演技することを教えてはいけない。
役割をもつことで、異なる立場の人の気持ちに寄り添うことが大切である。

教えるべきことと、話合うべきことを混同しない。
相手の知識・理解レベルに合わせた課題を提示する。
授業構成を考える上で忘れてはいけないことである。

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