大学の講義を受けての気付き。
大学では「学習者主体」のスタイルがとられている。
「アクティブラーニング」が大学の授業段階で実施されている訳である。
大変良いことだと思う。
例えば教育における現代的課題を提示されて
「これについて話合いなさい」
という授業。
これが成立する。
こういう話し合う授業は面白い。
しかし、これには前提が必要である。
学習者が、課題に対して、ある程度以上の知識や見解を備えていることである。
教育に関する知見は、全ての人がある程度もっているので、話合いが成立しやすい。
なぜなら、教育を受けたことがないという人がいないからである。
色んな立場で述べることが可能である。
しかし、例えば医学に関する知見は、誰しもがもっている訳ではない。
手術を執刀した経験など、ある訳がない。
だからいきなり「現代のがん治療における展望について議論しなさい」等といわれても、無理である。
新聞やニュースで知る程度の浅い知識で、その場の思いつきを話し合うしかない。
深まらない。
それなら、きちんと講義をしてもらったり本を読んだりして、知識を深める方が本質的に役立つ。
この辺りを理解しないで、いきなり子どもに課題を丸投げをしてしまうと、失敗する。
話合い中心の授業自体は楽しいのだが、往々にして深まらないことが多い。
それは、基礎的な知識の不足が原因である。
見解の狭さ故である。
(逆に知識がある故に見えない、という事態もある。)
算数の「筆算」の単元を例に考える。
まず「筆算」のやり方は、議論すべきところではない。
それを本当にまっさらな状態でやったとすると、固まる。
あるいは、不適切な様々な方法が出てしまう。
(今は大概、やり方自体を最初から知っている子どもが多数いるので、その子が説明してそれらしい終わり方になる。)
教科書に載っている筆算のやり方は、きちんと知識として教えるところである。
技能として習熟させるところである。
ここに議論の余地はない。
発展として桁が上がった時にどうするか、という段階なら有り得るが、ほどほどにしないと混乱する。
議論させるならば、もっと面白い課題である。
答えが一義的に定まらないようなものである。
筆算のやり方のように、最初から答えがはっきりしているなら、議論の余地はない。
道徳科の授業で本気で議論する姿を求めるなら、様々な見方ができるものにしないと「予定調和」になる。
「どうせみんな仲良くしましょうってことでしょ」と見透かされる授業では、本物の「演技者」を育ててしまう。
例えばロールプレイをするにしても、道徳的態度を演技することを教えてはいけない。
役割をもつことで、異なる立場の人の気持ちに寄り添うことが大切である。
教えるべきことと、話合うべきことを混同しない。
相手の知識・理解レベルに合わせた課題を提示する。
授業構成を考える上で忘れてはいけないことである。
2019年6月12日水曜日
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