ここ何号か書いてきた、鍵山教師塾での学び。
「善人思想」が一番怖い。
そういう話があった。
どういうことか。
以前「善魔」という言葉を紹介したことがあるが、あの話に近い。
「いいことをしている」あるいは学んでいる、という自覚をもつ。
すると、それをしていない、あるいは理解しない人に対し、悪く思ったり、不甲斐ないと思ったりする。
これが一番恐ろしい。
自分が正しいという思い込みは、大抵間違っている。
私も色々書いてきているが、今書いているこれも、あくまで多くの考え方の一つに過ぎない。
文化が違えば、善の基準も違う。
相手にとっての「絶対的な善」が全く理解できない、という事態も起き得る。
(宗教対立が最もわかりやすい。)
例えば、全国で早朝より公共のトイレ掃除をしている団体がある。
冬場もやる。
しかも、素手でやる。
これを「理解」できるか。
まして、掃除の文化のない国なら、尚更である。
やったことがなければ、到底「理解」は不可能である。
やってみても、理解できないかもしれない。
これにしても「いいことをしている」と頭の片隅でも思ったら、もうやらない方がいいという。
あくまで、修行の一環であると考える。
やらせていただく、と本心で考えられるための道である。
つまりは、何にしても「道」である。
正解がない。
ただ、自分が、正しいと信じることを、淡々と行うしかない。
それが「変人」のように、後ろ指をさされても、である。
人が違う道を行っていても、後ろ指をさすことはしない。
その人にとっての道だからである。
「おしつけ」、即ち教育をする場合、その文化をある意味で「強要」することになる。
学級の40人、加えてその両親が、教師と同じ文化を共有しているはずがない。
だから、おしつけられない部分は、無理をしないことである。
掃除などは、「道」の類なのである。
よって「指導」が難しいのは、当たり前である。
異なる意見が出てきて当たり前。
絶対善が存在しない以上、反対が出ないなんて、有り得ないと割り切る。
そういう心持ちで、なぜ自分がそれをやるのか、理由を語れるようにはしておきたい。
2019年6月4日火曜日
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