2019年6月4日火曜日

善人思想

ここ何号か書いてきた、鍵山教師塾での学び。

「善人思想」が一番怖い。
そういう話があった。

どういうことか。

以前「善魔」という言葉を紹介したことがあるが、あの話に近い。

「いいことをしている」あるいは学んでいる、という自覚をもつ。
すると、それをしていない、あるいは理解しない人に対し、悪く思ったり、不甲斐ないと思ったりする。

これが一番恐ろしい。

自分が正しいという思い込みは、大抵間違っている。
私も色々書いてきているが、今書いているこれも、あくまで多くの考え方の一つに過ぎない。

文化が違えば、善の基準も違う。
相手にとっての「絶対的な善」が全く理解できない、という事態も起き得る。
(宗教対立が最もわかりやすい。)

例えば、全国で早朝より公共のトイレ掃除をしている団体がある。
冬場もやる。
しかも、素手でやる。
これを「理解」できるか。
まして、掃除の文化のない国なら、尚更である。
やったことがなければ、到底「理解」は不可能である。
やってみても、理解できないかもしれない。

これにしても「いいことをしている」と頭の片隅でも思ったら、もうやらない方がいいという。
あくまで、修行の一環であると考える。
やらせていただく、と本心で考えられるための道である。

つまりは、何にしても「道」である。
正解がない。
ただ、自分が、正しいと信じることを、淡々と行うしかない。
それが「変人」のように、後ろ指をさされても、である。

人が違う道を行っていても、後ろ指をさすことはしない。
その人にとっての道だからである。

「おしつけ」、即ち教育をする場合、その文化をある意味で「強要」することになる。
学級の40人、加えてその両親が、教師と同じ文化を共有しているはずがない。
だから、おしつけられない部分は、無理をしないことである。
掃除などは、「道」の類なのである。
よって「指導」が難しいのは、当たり前である。

異なる意見が出てきて当たり前。
絶対善が存在しない以上、反対が出ないなんて、有り得ないと割り切る。

そういう心持ちで、なぜ自分がそれをやるのか、理由を語れるようにはしておきたい。

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