私は、何をするにも、一般的に見て「遅い方」である。
打合せ一つ出かけるのにも、もたもたする。
教室移動でいつも一番遅く教室を出る、あの子と同じである。
しかし一方で、一般的に見て「仕事がとても遅い方」かというと、そうでもない。
作業が遅いくせに、なぜなのか。
捨てるからである。
やらないからである。
そもそも、やらねばならない作業自体をなくしてしまうからである。
まず最初に「もしかして、これはやらないでもいいのではないか」ということを考える。
特に、慣例や当たり前になって長年続いているものは、真っ先に疑う。
なぜかというと、自分は作業が遅いので、ものが多いほど苦労すると知っているからである。
作業の能率化をはかって速くするより、作業自体をなくす方向で考える。
今回取り上げたい「当たり前」が、宿題の存在である。
「当たり前の宿題」は、教師と子どもと保護者に無用な苦しみを生む根源である。
例えばゴールデンウイークに宿題を出すのは、酷である。
そんなことをするから、休み明けの登校が(教師と子ども共々)嫌になるのである。
「宿題(残務)があるなぁ・・・」と思いながら過ごす休日の憂鬱さを思い浮かべられるかどうかである。
宿題とは、強制残業命令の異名である。
どんなに早く仕事を終えてる人にも、プライベートタイムに一律に強制される残業である。
自分がやられて嫌なことは、他人にしない方がいい。
いつも子どもにそう教えているのではないだろうか。
自分がやられたのだから耐えろ、というのは、中高生によくある先輩から後輩へのいじめと同じである。
「私たちもそうだった」という理由から、新一年生へ意味不明なルールに従わせようとする理不尽。
二年生からはこれが許可されて、これをしていいのは三年生からだけ、というような例のアレである。
子どもではなく、大人に問う。
学校の毎日の宿題が大好きで楽しみでたまらなかったという人が、どれぐらいいるのだろうか。
宿題があったから今の自分がある、という人が、どれぐらいいるのだろうか。
教師や親という立場の大人は、宿題の真の存在価値について考えたことがあるだろうか。
宿題がなぜあるのか。
なぜなくならないのか。
価値は何なのか。
「学力向上」とか「家庭学習の習慣」とか、ありきたりで無思考な回答はいらない。
嘘はいけない。
家庭学習の習慣とは、宿題で身につくものではない。
やる子はやるし、やらない子はやらないものである。
そこは、大人と同じである。
宿題で身につくものなら、少なくとも昭和生まれの日本人は全員相当に学力が向上して学習習慣が身についているはずである。
大人になった今も「三度の飯」より勉強が好きで好きでたまらない、やらずにはおられないはずである。
そんな現状、事実、エビデンスはない。
事実にきちんと正対して見た方がいい。
宿題実験の結果については、何十年にして何千万例の実験結果と実績、事実が目の前に大量の死骸のようにして横たわっている。
私は学級懇談会でもはっきり伝えた。
一般的に学校で宿題が出る真の理由は
「大人の安心感」
のためである。
断言するが「子どものため」ではない。
そういう「絶対善」にくるまれた美しい言い訳には、総じて疑ってかかるべきである。
「子どものため」というような美しい用語は、金科玉条、錦の御旗になりやすいので、見聞きしたら要注意である。
つまり、教師の側からすると
「宿題を出した」
↓
「家庭学習の習慣づけに働きかけている」&「学力向上を意識して実行している」
↓
「学校の役目を果たしている」
という構造になる。
実際、全くそうはならない。
「家庭学習の習慣」と「学力向上」の形だけを追い、本質を全く無視している。
そもそも家庭教育に口出しすること自体ナンセンスである。
学力は授業でつけるのが学校教育のプロたる教師の仕事である。
(教育のプロはいないかもしれないが、学校教育のプロは教師である。そうでないと、資格自体の意味がない。)
学力向上の責任を家庭教育へ丸投げするなど、プロたるプライドをもっていない何よりの証拠である。
宿題を出すなら、本当に家庭でしかできないものに限定して出すべきである。
保護者の側からすると
「宿題が出た」
↓
「我が子が家でも勉強する」
↓
「安心」
となる。
実際、全くそうはならない。
むしろ真逆の効果と結果を生む。
「宿題を(言っても)やらない」→「イライラ」→「叱責」がゴールである。
すんなりいくような子どもには、学力面でも生活習慣面でも、根本的に宿題自体が必要ではない。
そもそも家庭教育に教師を介入させようとすること自体ナンセンスである。
学校教育と家庭教育の役割の境界線が引けていない証拠である。
学校教育に対して無茶な要求が平気でできる人がいるのも、そういった境界線が引けていないからこそである。
教養と節度の問題である。
つまり、宿題を出すという行為は、教師にとっても保護者にとっても「ドSにしてドM」である。
子どもも苦しめて、自分たちも苦しんでいる。
客観的にみると、悲劇でありかつ喜劇、コントである。
(ちなみに、一番迷惑している罪のない犠牲者の配役は「子ども」であることは言うまでもない。)
意味のある宿題が全く存在しないとは言わない。
いや、むしろやり方次第では大いに意味がある。
かつての筑波大附属小の有田和正学級のような、子どもが真に追求するような自ら望む宿題もある。
しかしそれは、宿題を出す前段階の、素晴らしい授業がベースにある。
「学校から帰ってぜひ、何としても調べてみたい!」と子どもが熱望するような課題を授業で残すのである。
そこまでやれる先生が出してくれる宿題なら、反対のしようがない。
むしろ我が子にもどんどん出して欲しいほどの大歓迎である。
子どもの「やりたい」で行うものが、宿題の本質的にあるべき姿である。
自学をさせている人はここを目指しているのかもしれないが、教師の側に尋常でない熱量と勉強量が必要である。
(そもそも「自学をさせる」「自学の宿題」という日本語に矛盾を感じるのは私だけではないはずである。)
しかし残念ながら、世に聞く多くの宿題、あるいは自学は、無駄であるどころか、有害であると感じる。
ほとんどが単なる授業のやり残しによる強制残業、あるいは教師の自己満足によるものであり、工夫がない。
先の有田先生のように、素晴らしい宿題を出している例が全くないとは言わない。
しかし、ほとんどは単なる慣習、あるいは善意による迷惑であるとしか思えない。
(善意による有り難迷惑が、一番質が悪い。)
今の世の小学生は、放課後、文字通り「忙しい」のである。
何十年も前の平成初期や昭和の時代とは違うのである。
小学生が「心を亡くす」ほどに強制的に勉強や習い事ばかりさせるのには、はっきりと反対である。
そんな暇があるなら、もっと遊べといいたい。
宿題が、学級通信のように、一部の熱量のある人のものになればいいのである。
よほどの哲学や気合いがないのであれば、出さない方がよい。
大人も子どもも、不幸な人が増えるだけである。
「当たり前」の宿題こそが、捨てるべき仕事の「いの一番」であると、世に提案したい。
2019年6月20日木曜日
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