前号の続き。
宿題では学力向上も家庭学習の習慣も身につかないということについて。
学力が高い、ということの本質は何か。
元号が変わろうという今の時代「暗記テストで高得点がとれること」と答える人はもはやいない。
そういう時代が確実に存在したが、未だにその考え方だとしたら、シーラカンスばりに進化していない。
今求められている学力は、ずばり
「主体的・対話的で深い学び」
である。
つまり、本質的には「生涯を通して全てのものから学び続ける力」である。
筆頭に「主体的」がきている以上、強制的なもの、受動的にやらされてやるようなものは真の学力といえない。
この時点で「一律の宿題」「ひたすら黒板の文字を写す授業」「親にやらされてる習い事」等は完全にアウトである。
(「本を読め」というのもよくあるが、本なぞ本来読むなと言われても読むものである。娯楽の一種であり、音楽を聴いたりゲームをやるのと同じである。)
主体的に学ぶ力とは、自ら「学びたい」という思いから発するものである。
周りがやらなくてもいいとやめさせようとしても、勝手にやろうと追求する姿である。
私はよく保護者に、「昆虫好き」「電車好き」「石好き」等、大人からすると一見無意味に思える趣味・行為を見守るように伝える。
それは、ここに関連するからである。
一つの分野での成功が、長い目で見ると他に波及するからである。
対話的に学ぶ、というのも単なる形式ではない。
ペアトークや班での話合いをしたから対話的です、というようなものはまさに形式主義。
対話には、内面的な自己との対話が必須である。
自己と対話した上で、他者と対話することで、新たな自己との対話が生まれる。
新たな価値に初めて気付く。
「考え議論する道徳」が求めるものもここである。
やればいいというものではない。
対話には、内省的な活動と気付きが必須である。
深い学びは、ここを掘り下げる力である。
答えの見つからないものを、ひたすら追い続ける力。
かつての有田和正学級の「追求の鬼」の姿である。
与えらえた課題、テストに正しく答える力を学力と捉えている限り、辿り着くことは一生ない。
工夫のない宿題は、これらすべての力を著しく失わせる。
「主体的」「対話的」「深い学び」のすべての力を真逆の方向に育てるからである。
そもそも、学力だけつけようとすれば学力が向上するものでもない。
全てを犠牲にしてひたすら塾通いに全力を注いだ子どもが、どう育つか考えればすぐわかる。
普段の生活の中で「何で?」と疑問をもち、「もっとうまくやるには?」といった工夫をすることが当たり前になっている必要がある。
それは、家庭生活の中でもできるし、学校の中では休み時間や給食、掃除、あらゆる時間でできることである
卑近な例として、机の中の整理整頓一つとっても「もっと快適に使いやすくするには?」と考える力である。
想像し、創造していく力は、日常生活の中にこそある。
学力向上の本質は、生涯を通して全てのものから学び続ける力。
全ての時間を学びの時間と意識することからである。
教師にとっては、学力向上のための授業研究以前に、学級経営から学ぶことが必須である。
2019年6月22日土曜日
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