節分の時期に書いたメルマガの、鬼についての話。
豆まきの鬼は、排除対象である。
この場合、「鬼=悪」だからである。
一方で、「鬼神」という言葉もある通り、神様としての鬼もいる。
単純に「善」というより、崇められ、畏怖されている存在である。
悪いことや無礼をはたらくと、懲らしめられることもある。
こちらも、人間とは格の違う別のものという扱いである。
共通していることは
「常軌を逸している」ということ。
「人外」の存在であるということ。
「普通」と違うということである。
つまり「普通」と違うというのは、排除の対象となる。
個性を認めない姿勢である。
思えば、勧善懲悪物語は、小さいころから溢れている。
ヒーローもの、漫画、時代劇、ハリウッド映画。
悪を懲らしめ、正義は勝つ。
物語としては正しいのだが、これが意外と「いじめ」につながっていないか。
「悪者はやっつけていい」という単純な考え方。
「異質は排除」という考え方にもつながる。
そもそも、何が善で何が悪か、という根本的な考えに至る訳がない。
正義は、文化で規定される。
何を食べるのが善か悪かすら、文化的な正義である。
やっつけている自分が、ある人から見たら悪かもしれない、とは考えられない。
事実、いじめをしている子どもの大半は「遊びのつもりだった」と答える。
「そんな訳ないでしょ」と言いたくなるが、これが本音なのである。
(大人の「〇〇ハラスメント」の場合も同じである。)
いじめられている側にもいえる。
「自分がこんなだから」といって、誰にも言えない。
自分を「悪」にしてしまう。
客観的に見て、明らかに本人は悪いことをしていないのに、である。
これは虐待を受けている人、理不尽な目に遭った人全てにもいえる。
日常で、善悪の対立をすすめない。
何でも勝負の世界にして、白黒はっきりさせようとしない。
勝負の世界が面白いのは、技能を切磋宅した者同士が、それを試す場だからである。
日常生活でこれが馴染むかどうかは別である。
子どもに「いじめをなくそう」と言う前に、大人の推し進めている世界はどうか。
勝負の世界には、勝者と敗者が存在する。
子どもの「常識」を作るのは、大人である。
「正義は勝つ」も、振り返って考えるべき時にきているのではないだろうか。
2019年4月3日水曜日
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