2019年4月19日金曜日

掃除は、快楽。

昨年度の金大竜先生を招いてのセミナーでの気付き。

「掃除は、快楽。」という言葉があった。
なるほど、そこまで極端に考えたことがなかった。

言われてみれば、掃除は快楽である。
だったら、やりたくない子は放っておけば、という考え方も有り得る。
現に、ほとんどの諸外国ではやらないことである。
教育的に効果が高いが、全員にそれを保証するかどうかという話である。

「掃除が嫌」という人は、自分の手が汚れるのが嫌という場合がある。
つまり、きれいな状態は好きなのである。

人間は、本能的にすっきりするのが好きである。
汚いところがきれいになると、単純に嬉しい。

掃除で、誰にも手をつけられていない、ほこりの溜まった箇所を探すのが好きである。
宝探しの感覚である。

トイレ掃除は一番わかりやすい。
やるとものすごく気分がすっきりする。
なぜなら、一番汚れるからである。

度々参加させていただいている「被災地に学ぶ会」でも、何度も同じ経験をしている。
荒れ果てた敷地の草を刈ったり竹を切ったりして整地すると、すっきりする。
後になって「人のお役に立てた」という感覚もあるかもしれないが、暑い中で作業に没頭している間も苦ではない。

ヘドロ状態の土が詰まった溝を、スコップを使って汗まみれで開通させた時も、ものすごくすっきりする。
結局、きれいにすること自体、本能的に好きなのである。
いわゆる「ボランティア活動」が苦にならないための条件の一つかもしれない。

そう考えると、掃除をさぼっている子どもに対し、感情が変わってくる。
まず自分自身がきちんとやった方がよい。

ただ、真面目にやっている子どもの妨害だけはさせない。
やらないならまだしも、邪魔をするなら話は別である。
(問題は、やらないでおしゃべりしているだけで、掃除の邪魔という点である。)

邪魔にならない場所で大人しくしてもらう必要がある。
「そこ、どいてくれる?」と声をかける必要も出るかもしれない。

やらないなら、代わりにやる必要も出る。
与えられた分担以上に、進んでやりたいという子どもにぜひ任せたい。

究極、勉強しないのも、運動しないのも、本を読まないのも、掃除しないのも、根っこは一緒である。
多分、本人がそれを好きではないのである。

がんばっているのにできない、という話とは違う。
そもそもどうしても楽しめない場合は、「合わない」のである。

教師の「全員を救って導こう」という姿勢自体は尊い。
しかしながら、1の労力で10効果の出る相手を捨ておいて、100かけてもマイナスにしかならない方を優先的に相手すべきどうか。
無限にリソースがあるならばそれも可能だが、残念ながら全て有限である。
中途半端な気合いでは、感謝されるどころか、迷惑がられるだけである。

掃除は、快楽。
楽しいから、やる。

考え方一つで、また景色が違って見えるような気がしている。

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