2019年4月27日土曜日

「かかし」にならない

次の言葉が心に引っかった。

「すぐに鳥の遊び場になってしまうかかしになってはいけない。」
(「賢人の知恵」バルタザール・グラシアン著  齋藤慎子訳 ディスカバー より引用)

「ときには強い感情を表に出す」という項の中の一文である。

かかしというのは、詩や文学作品等において、しばしば「滑稽なもの」の象徴として登場する。
かかしは、威張って立っているようでも「こけおどし」だからである。
鳥程度にもすぐに見抜かれてしまうのである。
中身がなくて感情もなく、どうせ動けもしないのだから、怖くもないし、馬鹿にし放題である。

一応「だめだぞ」ということを存在としてアピールはしている。
しかし、鳥は「全然へっちゃら」で無視して、稲穂をついばんでいる。
その時、かかしは、「そこに立っているだけの存在」である。

「かかし教師」。
これほど切ない立場はない。
目の前で繰り広げられる横暴に、為すすべもなく、立ち尽くす。

かかしのように立っていても、鳥に遊ばれていても、それで教室が機能しているのならいいのである。
しかしその場合、そこに立っているのはきっとかかしなのではなく、かかしに見せかけた中身のある人物である。

「指導の行き過ぎ」がしばしば新聞で問題になる。
ただ「かかし」状態に比べたら、少なくとも人間としての尊厳はある。
人間は、子どもでも大人でも、馬鹿にされたり傷つけられたりしたら、腹が立つ。
この場合、感情が爆発した後に「下手な言動をとること」が問題なのである。

本来は、感情が爆発したら、とにかく一旦そこから離れる必要がある。
あるいは、そういう状態にならないような手を事前に打っておく方に力を注ぐ。
怒った後の感情自体をコントロールしようと「不自然」を目指すから、うまくいかないのである。

逆に、「かかし」状態の教師は、なぜ口も手も出せないのか。

指導に自信がない(=自身がない)のである。
目の間の事態に、どうしていいかわからないのである。
「困った教師」と言われ批判されるが、実は本人が一番「困っている」のである。
(無責任な批判や非現実的な方法の提示は、どんなに無知な者でもできる。
真の建設的な批判には、自分なら本当にどうにかできるか、その手立てを示せるかが問われる。)

下手なことを言ったりやったりすれば、その後が怖い。
先の「指導の行き過ぎ」問題が脳裏をよぎり、「指導のしなさすぎ」になる。
保護者、管理職、教育委員会からどんな「クレーム」「指導」が入るかわからない。
本来味方のはずの存在が、敵に見えている(あるいは本当にそうなっている)。

これが高じてくれば、「かかし教師の増産」につながる。
その一番の被害者は、子どもである。
かかしに教わることは、虚無感以外何もない。

どうすべきか。

社会や他者の側に変わってもらおう、わかってもらおうなどと虫のいいことを考えない。
教師の側が主体的に変わるしかない。

まずは若手かどうかを問わず、最低限の学級経営に関する教育技術を全員が身に付けること。
根拠ある理論も信念もなければ、屁理屈にすら対抗できないのである。
「子どもをよりよい方向に導く」という基本方針にきちんと見合うねらいがあれば、少なくともものは申せる。
その言動に理論も信念も理由もないから、相手も怒るのである。

「手段」も大切だが、「理念」「信念」「哲学」も同じかそれ以上に大切である。
だから、ハウツーだけの本やセミナーよりも、そこを学べるものの方が重要である。

そして本を読んだり話をきいたりしたことは、とにかくすぐに確実に実践すること。
子どもは、大人の言葉ではなく、背中(行動)を見て育つ。

例えば、道徳科の授業をどんなに充実させても、それ「だけ」では残念ながら全く意味がない。
道徳科の授業は、単品では使えないのである。
教師がそれを実践していない、心から大切だと思っていないなら、無意味どころか、害悪ですらある。
自身がこけおどしの「かかし」に近づくだけである。

だから、道徳科の授業は、最も難しい。
教える側の人間性がそのまま出る。
同じ教科書を使っても、その効果が全く異なる。
道徳科の授業自体を勉強すると同時に、自身の修養の時間を優先的に確保する必要がある。

かかしにならない。
これは、教師だけでなく、親にもいえる。
あれこれ口出ししすぎも問題だが、大人が「ただ威張ろうとしているだけ」の存在では、あまりに頼りないということである。

一見気安くされているようで、一面で尊敬もされているというのが、本来目指すベストな状態である。

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