読者の方から、一つ問題提起となるメールが来た。
一部改変して紹介する。
==================
うちの子が通う小学校では、運動会の徒競走は、事前にタイムを測って、遅い順から組ませている様子です。
なぜそんな事をする必要があるのか、とても疑問です。
運動会で花形になる子達がいていいじゃないか、みんなですごいね!と言ってあげればいいじゃないか、と思ってしまいます。
そして、もっと怖いと思う事は、子ども達がそのやり方を知っていて、タイムを測る時に、力を抜いて走るのです。
子ども達が、それを自慢げに話しているのを聞き、愕然としました。
「だから今年は1位取れそう」って。
これって完全に真逆のメッセージを子ども達に伝えていませんか。
他の学校でも聞いた事があり、このやり方は、よくあるやり方なのでしょうか。
そして、何か理由があるのでしょうか。
===================
どうだろうか。
この指摘の通り、本来目指す方向と真逆に育つ。
子どもは、賢いのである。
子どもにとって、運動会の徒競走の順位は、結構な重大事である。
なぜ教師の側もこの方法でやるのか。
そこについて、特に深く考えてない、あるいは気付いていないからである。
教師の立場をかばう訳ではないが、そこに悪意はない。
むしろ、「こうするとよいだろう」という善意である。
なぜ?
気付いていないからである。
理由は?
深く考えていないからである。
前例にならってしまうからである。
何のためにやるのか。
それは、子どもが逆の方向に育たないか。
そこに思いが至らないのである。
こういうことは、学校の中に結構な割合である。
「毎年そうだから」とか「ずっと前から当たり前」とか「思い付き」とかでやっていないか。
いつもやっていることを、「当たり前」で片付けてしまう。
反省的思考がないこと自体が問題なのである。
競わせたりランクをつけたり点数にこだわったりする際、この「負の教育効果」を発揮しやすい。
行うならば、子どもの思考と心がそれでどう育つか、結果をよくよく考える。
特に能力別のグループ分けや序列は、かなり慎重に方法を検討しないと、大失敗しやすい。
それは本当にいいことなのか。
あるいは、本当にいるのか。
何のためにやっているのか。
当たり前のように採用している方法すべてに必要な「仕分け・検討作業」である。
2019年4月17日水曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
教材研究という言葉が一般的である。 教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。 (まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。 以下同様。) 教材研究の前にすべきは、素材研究。 教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む...
-
前号の続き。 教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。 (そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。) 例の如く野口芳宏先生よりずばり。 「課題」は出されたもの。 「問題」は感じたもの。 つまり、教師から与えたものが「学習課題」。...
0 件のコメント:
コメントを投稿