2019年4月15日月曜日

「正解」とは「好き」の異名

昨年度末に、大阪の金大竜先生を呼んでセミナーをした際の気付き。
以下、全て私の解釈である。

「男子、三日会わざれば刮目して見よ」という慣用句がある。
講師の金先生は、この言葉通り、会う度に変わる人である。
教育の手法だけでなく、在り方そのものが変わっている。

それはつまり、自己否定である。
それは同時に、自己受容である。
過去の自分は過去として認めつつ、今の自分の変化を受け入れ続けるということである。

人は誰でも、その時の精一杯を生き続けている。
振り返って間違っていると思われる選択でも、その時々の最善と思う選択をしている。

過去の教え子たちに申し訳なく思う。
教師なら、きっと誰でも思うことである。(親から我が子に対しても、そうかもしれない。)

一方で、それがその時の最善を尽くした結果だと認める。
だから、今は今で違う選択をとる。
自己否定と自己受容の連続である。

セミナーの最後に参加者全員で振り返りを書いて話し合った。
私は次のように書いた。

1「正解」はそれぞれの中に。
2自分の道を進むしかない。
3道程で他から学ぶ。

1は、人には人の数だけの正解、正義があるという意味である。
好みと同じで、千差万別。
たまたま嗜好が合う人もいれば、真逆もいる。
「正解」とは、「好き」の異名である。
だから教師は、子どもたちに自分の正解(好き)を絶対として押し付けないことである。

親が我が子の結婚相手や将来の道に反対する行為も、これに当たる。
親の正解(好き)の押し付けである。
それを受け取るか否かは、自分の選択次第である。
親子といえど、そこは「他人」である。

2は、それでも自分が正解と思われる道を進むということ。
人を導く立場にある人は、今自分が正しいと思うことを伝える。
絶対的に正しくはないかもしれない。
しかしそれを怖れていては、何も教えられない。

もしかしたら、趣味が合わずについてきてくれない子どももいるかもしれない。
それも相手の選択である。
私を認めてもらうように、相手も認めるというのが平等な関係性である。

3は、進みながら考えるということ。
絶対の正解でないと動けないとなると、何もできない。
動きながら学ぶ。
違うなと思ったら、さっと方向転換する。

気付くには、自分自身の俯瞰である。
他者から学ぶことで、自分の誤りに気付きやすくなる。
他者の姿が「他の方法もあるよ」と示してくれる。
自分の中の「正解」が変わるかもしれない。

「正解(好き)」を問い直してくれる、貴重な時間を過ごさせていただいた。

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