昨年度末に、大阪の金大竜先生を呼んでセミナーをした際の気付き。
以下、全て私の解釈である。
「男子、三日会わざれば刮目して見よ」という慣用句がある。
講師の金先生は、この言葉通り、会う度に変わる人である。
教育の手法だけでなく、在り方そのものが変わっている。
それはつまり、自己否定である。
それは同時に、自己受容である。
過去の自分は過去として認めつつ、今の自分の変化を受け入れ続けるということである。
人は誰でも、その時の精一杯を生き続けている。
振り返って間違っていると思われる選択でも、その時々の最善と思う選択をしている。
過去の教え子たちに申し訳なく思う。
教師なら、きっと誰でも思うことである。(親から我が子に対しても、そうかもしれない。)
一方で、それがその時の最善を尽くした結果だと認める。
だから、今は今で違う選択をとる。
自己否定と自己受容の連続である。
セミナーの最後に参加者全員で振り返りを書いて話し合った。
私は次のように書いた。
1「正解」はそれぞれの中に。
2自分の道を進むしかない。
3道程で他から学ぶ。
1は、人には人の数だけの正解、正義があるという意味である。
好みと同じで、千差万別。
たまたま嗜好が合う人もいれば、真逆もいる。
「正解」とは、「好き」の異名である。
だから教師は、子どもたちに自分の正解(好き)を絶対として押し付けないことである。
親が我が子の結婚相手や将来の道に反対する行為も、これに当たる。
親の正解(好き)の押し付けである。
それを受け取るか否かは、自分の選択次第である。
親子といえど、そこは「他人」である。
2は、それでも自分が正解と思われる道を進むということ。
人を導く立場にある人は、今自分が正しいと思うことを伝える。
絶対的に正しくはないかもしれない。
しかしそれを怖れていては、何も教えられない。
もしかしたら、趣味が合わずについてきてくれない子どももいるかもしれない。
それも相手の選択である。
私を認めてもらうように、相手も認めるというのが平等な関係性である。
3は、進みながら考えるということ。
絶対の正解でないと動けないとなると、何もできない。
動きながら学ぶ。
違うなと思ったら、さっと方向転換する。
気付くには、自分自身の俯瞰である。
他者から学ぶことで、自分の誤りに気付きやすくなる。
他者の姿が「他の方法もあるよ」と示してくれる。
自分の中の「正解」が変わるかもしれない。
「正解(好き)」を問い直してくれる、貴重な時間を過ごさせていただいた。
2019年4月15日月曜日
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